映画「沈黙―サイレンスー」を観る | 世日クラブじょーほー局

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 島原の乱から4年後の1640年、長崎。生き延びた隠れ切支丹の有様は想像を絶した。そこへ、かつて日本に宣教に行ったまま帰らない師を追って、若き二人の神父が辿り着く。その一人であるセバスチャン・ロドリゴの見聞と生きざまを日記風の語りで綴る。
 
 われキリスト者として、主のためになら、命を投げ出す覚悟もいとわない。なんとなれば、御子イエスは、我らが罪を背負って十字架に架けられた。その最後の瞬間には、「神よ神よ、どうして私をお見捨てになったのですか」の言葉どおり、沈黙する神に、心まで引き裂かれる精神の十字架をも引き受けられたのだから…。
 
 しかしどうであろう、自らに降りかかった十字架たるこの試練は…。目の前で信徒が見るも耐えがたい残忍な拷問に掛けられている。それを解放するには、自らが棄教するほかないという究極の選択だ。どちらもできようはずがない。自分はどうすれば良いのか、どうか答えを!! 待てど暮らせど、神はひたすら沈黙される…。神はいないのか…。
 
 主人公であるポルトガルの若き神父、ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)の揺れ動く心中はこうだろう。永遠の信仰命題といえる ”神はいませど、沈黙せり” をどう解するのか。かのマザーテレサも晩年、同様の悩みに苦しんだという。では神はいないと結論するのか。
 
 「もし永遠の神がいないなら、いかなる善行も存在しないし、それにそんなものはまったく必要がない」(ドストエフスキー著「カラマーゾフの兄弟」)し、神を否定した究極の形が収容所郡島といわれた旧ソ連であり、ポルポトのカンボジアであり、中共であり、北朝鮮である。これには多言を要しない。ISは、神の名を語った共産主義であり、ロシアの思想家ベルジャーエフが看破した”共産主義というこの世の宗教”のちょうど裏返し。ならば沈黙の意味は…
 
 逆にもし、神からの応答が大容量データ通信とはいわずとも、常時接続よろしき状態であれば、不信心な者は存在し得なかったろうし、人類歴史は格段に容易であったろう。ま、ま、それはそうと…。
 
 印象的だったのは、志操をまげた師と、かつて敬愛した師の姿を探し求めた弟子という二人の宣教師の邂逅の場面で、師であるフェレイラ神父役のリーアム・ニーソンの演技には感服。遠藤周作が照らし出す隠れ切支丹の真実を目撃あれ。
 
(出演)
アンドリュー・ガーフィールド、リーアム・ニーソン、アダム・ドライバー、浅野忠信、ギアラン・ハインズ、窪塚洋介、イッセー尾形、塚本晋也、小松菜奈、加瀬亮、笈田ヨシ
(監督)マーティン・スコセッシ