【『麒麟がくる』関連本⑫】諸田玲子『帰蝶』 | 戦国未来の戦国紀行

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 『月を吐く』は、徳川家康の正室・築山殿の生涯を描いた本で、ネタ本は、関口正八・柳史朗『徳川家康正室・築山御前考』です。

 

 『帰蝶』は、織田信長の正室・帰蝶の生涯を描いた本で、ネタは、『立入宗継文書』です。「帰蝶(濃姫、胡蝶)」の「帰」は「嫁ぐ」、「濃」は「美濃国」の意で、「胡蝶」は「蝶」の異称です。

 

 帰蝶(濃姫)については不明な部分が多く、「子はいない」「離婚」「本能寺の変よりも前に他界」とも言われてきましたが、平成4年(1992)に、岡田正人氏の「濃姫(鷺山殿)は、慶長17(1612)年7月9日、78歳で亡くなった」とする説が発表されてから、加速的に研究が進んでいます。この本は、2015年発行だけあって、最新の学説を取り入れています。ただ、読んでみて、「これは古い説だ」と感じたのが1件と、「これは聞いたことがない。作者の説であろう」と感じたのが3件ありました。

 

 私は、築山殿について書いた記事で、「徳川家康と築山殿の結婚は、田舎者と都会のインテリ美人との結婚であり、意思の疎通ができないまま離婚した」としましたが、今は、「恋愛を語るのは側室とであり、正室とは政略結婚であるから、徳川家康と築山殿の結婚は、徳川家と今川家との勢力関係で語るべき」かなと思っています。同様に、織田信長と濃姫(正室・帰蝶)も政略結婚ですから、織田氏と土岐氏、あるいは、尾張国と美濃国との勢力関係で語るべきかなと。

 

 昨年の大河ドラマの遠江井伊氏の歴史は、1010年の井伊共保の誕生に始まり、徳川家康の関東移封まで、あるいは最後の宗主である井伊直政が亡くなるまで600年間あり、分家は、数えたら20家ありました。美濃土岐氏の歴史は、土岐初代宗主(国房説、光国説、光信説、光衡説あり)が土岐光衡(1159-1206)だとすると、彼が美濃国土岐郷へ移住した年から、斎藤道三による土岐頼芸の追放(1552年頃)までの400年間になります。分家の数は、井伊家の場合から類推して20家弱かなと思いますが、なんと124家あります。守護家と婚姻関係を結びたい国衆、土豪が側室を差し出すので、子が多くなり、多くの分家が出来たのでしょう。

 こうなると、「美濃と戦う」ということは、「土岐一族と戦う」と言ってもいいわけで、斎藤道三・義竜親子が土岐氏から美濃国を奪い、織田信長は斎藤義竜から美濃国を奪い、土岐一族の明智光秀が織田信長を本能寺で討ったわけで、「本能寺の変」は、「土岐氏が織田氏を討った」という観点、「源氏が平氏を討った」という観点からも検討すべきかもしれません。(織田信長が平氏であるかは疑問ですが、当時の人は、平氏だと考えていたようです。)