【『麒麟がくる』関連ドラマ・演劇②】 『明智光秀〜神に愛されなかった男〜』 | 戦国未来の戦国紀行

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よく考えられた脚本だと思います。

 

泣けたのは、明智光秀が明智秀満に語る次のシーンです。

 

 

明智光秀「秀満、もはやこれまでじゃ。信長様には先の世が見えていない。それでは全てが滅ぶ」

明智秀満「では、いかがなされます?」

明智光秀「逆心がひとり出ればよい」

明智秀満「逆心?」

明智光秀「その者が信長様を討つ」

明智秀満「信長様を?…しかし、そのような者は、」

明智光秀「聞け。その逆心は、正当なる織田の後継者に討たれる。そして後継者は、誰はばかること無く、織田家を継げるのじゃ」

明智秀満「正当なる後継者・・・柴田殿?・・・いや、丹羽殿」

明智光秀「ふっ、猿じゃ」

明智秀満「羽柴殿にございますか!」

明智光秀「よいか秀満。『猿も木から落ちる』という。じゃがあの猿は、そもそも木に登らん。常に地に足をつけておる。木に登らねば落ちることもない。ここらで織田は地に足をつけ、踏ん張らねばならんのじゃ」

明智秀満「父上・・・信長様を討つ・・・逆心と・・・」

明智光秀「その木には金柑が生っておる。その金柑が地面に落ちればよし」

明智秀満「父上まさか」

明智光秀「猿は落ちた金柑を喰う。そして皆に言うのじゃ。『この金柑を食べた者が、今日(こんにち)から織田を率いる』と」

 

 

・なぜか雨が降っている。多分「時は今 天が下しる五月哉」って演出でしょうね。

・「木に登らない」は「木下(藤吉郎)」と掛けてる?

・「左馬助の湖水渡り」で有名な明智左馬助秀満の正体については、娘婿・三宅弥平次説と従弟(明智光安の子)・明智光春説があります。このドラマでは明智光秀を「父上」と呼んでいます。明智光秀の家臣で、「秀満」の「秀」は光秀の偏諱でしょうね。

 

見た時は感動したけど・・・最期の明智藪での決闘シーンでは、明智光秀が農民じゃなくて豊臣秀吉にわざと撃たれる(明智光秀は、豊臣秀吉ではなく竹を撃ち、竹が倒れた)という史実とは異なる演出も許せたけど・・・今思うと、織田信長の正統継承者って、嫡男・信忠じゃないの? (史実は・・・長男・信忠は二条城で自害したので、後継者を次男・信雄にするか(豊臣秀吉)、三男・信孝にするか(柴田勝家)で「賤ヶ岳の戦い」となった。)

 

※このドラマでは、豊臣秀吉が庶民的に描かれていて、豊臣秀吉に任せれば、領民の心がよく分かる領主になって平和が訪れるが、織田信長は冷酷で、いつになっても戦国の世が終わらない(平和な時代が来ない)からないから討って織田家を豊臣秀吉に託したとしています。でもそれって、「豊臣秀吉による織田政権の存続」ではなく、「織田家から豊臣家への政権交代」では?

 

※織田信長のネーミングのセンスが・・・自分の子には、奇妙丸、茶筅丸、酌、・・・、明智光秀の「金柑頭」は、「禿(はげ)」という意味です。「光秀」の「光」の下と「秀」の上を組み合わせると「禿」になる(「禿」は「光秀」の略記)けど、実際は禿ていなかったので、「禿」とは呼ばず、同義語の「金柑」と呼んだようです。名前で呼ばれなかったのは、「いじめ」ではなく、「親しみを込めて」ではないかと。ちなみに、「猿」は、豊臣秀吉の幼名(一説に「猿丸」。「日吉丸」は創作)です。

 

よく分からないのが「神に愛されなかった男」というサブタイトルです。

「神の愛」とは、キリスト教の用語であり、観る前は、細川ガラシャが「私の父は・・・」とか、ルイス・フロイスが「光秀様は・・・」とか、語り部として出てくるかと思ったら、そうではなかった。(明智光秀が美濃国生まれとすると、明智光秀にとっての神は「白山神」かな? 出てこなかったけど。そもそも日本の神は「愛」という言葉を使わない。)キリスト教には詳しくないが、「神の愛」は全人類に平等に注がれ、「神に愛されない人」などいないのではないか? もし、神に愛されなくなったら、悔い改めれば、再び愛されるようになるのでは?

このドラマのキーアイテムは仏像のようで、何度も仏像が出てきたから、サブタイトルは、「彼は仏に愛されたか?」とか、「仏を斬った男」でよかったかも。

私が脚本を任されたら、

『明智光秀〜天に選ばれなかった男〜』

として、天道思想で貫く物語にしますけどね。

ちなみに、『明智軍記』では、冒頭で、天道について語られています。