橘 | 戦国未来の戦国紀行

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日本の戦国時代について

 

 

「井伊共保公出生の井戸の横にはタチバナの木が植えられていたので井伊家の家紋は橘である」とか、「井伊共保公の産着に橘紋があったので井伊家の家紋は橘である」とか言われる。

 

 ──井伊共保公出生の井戸の横に橘が無いのはまずい。

 

とライオンズクラブが彦根から苗木を運んで植えた。彦根井伊神社の前に植えられているのと同じニッポンタチバナであろうか?

 

 

 

 

 ミカン類は、当たり年とはずれ年が交代でやって来る。昨年ははずれ年で、カメラを木に突っ込んで、ようやくその実を捉えることが出来た。(タチバナの枝の剪定は、井伊家の人を斬るのに等しいので、出来ない。)

 

 ──実の大きさは金柑くらいか。私が知ってる橘の実よりも小さい。

 

と思った。

 

 

 

 

 タチバナは、『萬葉集』の歌にも出て来るが、実際には「多分、ミカンの一種」ということしか分かっていない。ただ、「これが橘ではないか?」と考えられる候補はあり、それらは、「万葉の森公園」(浜松市浜北区)で見ることが出来る。

 ちなみに、『萬葉集』の「阿倍橘」(阿部橘、アベタチバナ、アヘタチバナ)は、「阿倍野」(現在の大阪市阿倍野区)で栽培されていた品種で、現在の「橙(ダイダイ)」であって、「橘」とは異なるという。

 

 

 


記紀によれば、垂仁天皇は、田道間守(タヂマモリ)を常世国に遣わして「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ、非時香木実)」と呼ばれる不老不死の力を持つ霊薬を持ち帰らせたという。

 

実際は薬ではなく、苗木を済州島から持ち帰ったらしいが、帰国した時には、時既に遅く、垂仁天皇は亡くなっていた。田道間守は残念に思い、「垂仁天皇の側にいたい」という遺言で、遺体は垂仁天皇陵(菅原伏見東陵。考古学名は「宝来山古墳」)の周濠に浮かぶ「中島」に埋められたという。

 

『古事記』では、この田道間守が常世国から持ち帰った非時香菓を「是今橘也」(これ今の橘なり)としている。何年もかかって漸く持ち帰ることが出来た植物であるから、日本に自生しているニッポンタチバナであるはずがなく、

 

①非時香菓は橘ではない。(『古事記』は誤り。)

②非時香菓はタチバナではあるが、ニッポンタチバナではない。

 

のいずれかとなるが、いずれにせよ、「タチバナはミカン類の植物である」と考えられている。

ミカン類は、実を収穫しなければ、花が咲くまで落ちないで生っている「非時」(時知らず)であるので、ダイダイ(橙)は、縁起物「代々」としてお正月飾りに用いられるし、ミカン類は常緑樹であるので、不老不死と結びつく。

 花は香りが良い。(実は酸っぱくて、マーマレードにしないと食べられない。ミカンの花の蜂蜜に入れても良い?)そもそも橘は、身を食べるためではなく、花の匂いを嗅ぐために植えるのであって、「タチバナ」は「タヂマバナ」(田道間守が持ち帰った花)の略だというが、和歌では「橘」と「花橘」が区別される。そして、『古今和歌集』の

 

  五月待つ花橘の香をかげば 昔の人の袖の香ぞする

 

が有名となり、以後、橘の花の香は、昔を思い出させるものとされた。(特に元カレ、元カノへの未練と結び付けて詠まれた。)

 

  いにしへをしのぶとなしにふる里の夕べの雨ににほふ橘 (源実朝)
 

 現在、田道間守は、菓子神、菓祖として中嶋神社に祀られ、パティシエに崇拝されている。

 この田道間守は、朝鮮半島から渡来した天日槍の後裔で、三宅氏の祖である。井伊谷は井伊氏が支配する前は、三宅氏が支配しており、都から国司として赴任してきた藤原氏と三宅氏との間に出来た子が井伊共保であり、井伊氏は、三宅氏の家紋である橘紋を使っているという。