川中島の合戦を5度も行い、結局、信州を完全掌握することに失敗した武田信玄。方針転換をし、上野、駿河、遠江と侵攻し、ついに上洛は果たせなかった。そもそも武田信玄が上洛を目指していたのか?ということはおいといて、まずは信玄の信州侵攻を見てみたい。年表を見るとすぐに分かることですが、信玄は1542年から1564年のおおよそ22年間、信州攻略のための軍を出しています。
信長が美濃を手中したのに要した時間は約10年ほどということを考えると、かなり信玄は手間取ったと言わざる終えないかも知れません。当然、国が違うので、全く一緒に考えることは出来ないとは思いますが・・。
武田晴信(後の信玄)は家督相続後、翌年1542年信州を平定すべく軍勢を諏訪に向けることとなります。
先代の信虎は甲斐の北、佐久、小県を攻め、北西に位置する諏訪、南の今川とは友好関係を築きました。これは侵攻路線を1本に絞った手堅い戦略です。また信州国内に上野(こうずけ)、関東管領、山内上杉家の影響を排除する狙いもあったことでしょう。
しかし佐久、小県を屈服させた後に信虎は失脚します。家臣団の叛乱が原因です。
そんなゴタゴタの最中に佐久、小県は武田家から離れることなります。
こうして武田晴信は武田家の当主となったわけですが、家臣団によって祭り上げられた当主であり、権限は信虎時代よりもかなり制限されたものであったと推察します。家臣団の筆頭は、板垣、甘利で彼らの意見は絶大なものだったでしょう。
そして先述のとおり諏訪に侵攻するわけですが、これに疑問符がつきます。
なぜ佐久、小県への侵攻を選ばなかったのか。
当時、諏訪は高遠との関係が悪く、また武田家の軍事力に依存しなければならない状況だったようです。こんな状況で諏訪が武田に背くことはなかったはずでした。
理由として考えられるのは、諏訪の方が利益が大きい、そして高遠を利用し、安易に攻め取れるということ。
少し長い目でみれば佐久・小県さらには埴科と北上する方が信州を手中にということを考えれば早かったと思われます。信虎の戦略はとても合理的でした。当然、信虎も諏訪をゆくゆくは取るつもりではいたでしょう。
諏訪を手に入れた後は佐久へと向かうこととなります。
これは甲斐から近く、やはり安易にすぐ取れるという考えから来ていると思われます・・・。結果、佐久を攻略しようとしている最中に高遠氏が諏訪へ襲い掛かることとなり、二正面作戦を強いられます。
実は武田のこうした拙劣な戦略は上田原にて筆頭家老、板垣、甘利が戦死するあたり(1551年ごろ)まで続くんですよね・・。まだ信州の半分ほどしか手中にしてないにもかかわらず8年近く経過してます。
簡単にすぐ利益になると考えた戦略が長い目で見ると信州平定を遅らせた・・と思えます。もちろん結果論といえるのかも知れませんが
その後、越後の長尾影虎と5回も合戦しますが、信州平定は未完となってしまいます。
信玄は信州攻略に手間取りそれに費やした時間が少々長すぎたように思います。
まぁ信玄にしても、分かってはいるけどどうにもどうにも出来なかった・・・ということかもしれませんが・・・
信長が美濃を手中したのに要した時間は約10年ほどということを考えると、かなり信玄は手間取ったと言わざる終えないかも知れません。当然、国が違うので、全く一緒に考えることは出来ないとは思いますが・・。
武田晴信(後の信玄)は家督相続後、翌年1542年信州を平定すべく軍勢を諏訪に向けることとなります。
先代の信虎は甲斐の北、佐久、小県を攻め、北西に位置する諏訪、南の今川とは友好関係を築きました。これは侵攻路線を1本に絞った手堅い戦略です。また信州国内に上野(こうずけ)、関東管領、山内上杉家の影響を排除する狙いもあったことでしょう。
しかし佐久、小県を屈服させた後に信虎は失脚します。家臣団の叛乱が原因です。
そんなゴタゴタの最中に佐久、小県は武田家から離れることなります。
こうして武田晴信は武田家の当主となったわけですが、家臣団によって祭り上げられた当主であり、権限は信虎時代よりもかなり制限されたものであったと推察します。家臣団の筆頭は、板垣、甘利で彼らの意見は絶大なものだったでしょう。
そして先述のとおり諏訪に侵攻するわけですが、これに疑問符がつきます。
なぜ佐久、小県への侵攻を選ばなかったのか。
当時、諏訪は高遠との関係が悪く、また武田家の軍事力に依存しなければならない状況だったようです。こんな状況で諏訪が武田に背くことはなかったはずでした。
理由として考えられるのは、諏訪の方が利益が大きい、そして高遠を利用し、安易に攻め取れるということ。
少し長い目でみれば佐久・小県さらには埴科と北上する方が信州を手中にということを考えれば早かったと思われます。信虎の戦略はとても合理的でした。当然、信虎も諏訪をゆくゆくは取るつもりではいたでしょう。
諏訪を手に入れた後は佐久へと向かうこととなります。
これは甲斐から近く、やはり安易にすぐ取れるという考えから来ていると思われます・・・。結果、佐久を攻略しようとしている最中に高遠氏が諏訪へ襲い掛かることとなり、二正面作戦を強いられます。
実は武田のこうした拙劣な戦略は上田原にて筆頭家老、板垣、甘利が戦死するあたり(1551年ごろ)まで続くんですよね・・。まだ信州の半分ほどしか手中にしてないにもかかわらず8年近く経過してます。
簡単にすぐ利益になると考えた戦略が長い目で見ると信州平定を遅らせた・・と思えます。もちろん結果論といえるのかも知れませんが

その後、越後の長尾影虎と5回も合戦しますが、信州平定は未完となってしまいます。
信玄は信州攻略に手間取りそれに費やした時間が少々長すぎたように思います。
まぁ信玄にしても、分かってはいるけどどうにもどうにも出来なかった・・・ということかもしれませんが・・・