場所 島根県能義郡広瀬町
年代 天文11年(1542)~天文12年


尼子が安芸の毛利領への侵攻に失敗し、それまで尼子に組していたものが大内氏に寝返るようになり、それを機に大内義隆月山富田城の攻略に乗り出す。


この遠征に反対するものもいたが、せっかく大内に寝返ったものがまた尼子氏に戻ってしまうことへの恐れと、陶隆房のゴリ押しが利いて遠征は決まった。


天文11年1月11日に周防を出陣し、途中毛利軍なども加わった。

6月7日に尼子の支城、出雲穴瀬戸山城を大内の配下、熊谷直続が攻撃を加えるも返り討ちにあい討死。しかし7月27日に陶軍、平賀軍、吉川軍が落城させた。


天文12年正月に本陣を畦地山へとして大内軍は軍議を開き、月山富田城へ総攻撃を加えるため本陣を経羅木山に移すことに決まる。これに毛利元就は敵城に近すぎると反対をするが、受け入れられなかった。


2月12日から攻撃を加えるものの、抵抗激しく落城の気配が全く見えず、さらに大内軍に降伏していた者達が尼子へ寝返り、形成が不利となった大内軍は退却を余儀なくされ、攻略は失敗に終った。