年代 元亀元年(1570)6月28日
場所 滋賀県東浅井郡浅井村野村


2月に朝倉氏を討つべく信長は兵を進め、朝倉の支城を攻略していき、順調にいけば朝倉氏を滅ぼすことが出来たのだが、ご存知の通り浅井氏の裏切りにより失敗に終る。


怒った信長はすぐに兵をかき集め、浅井領へ攻め込んだ。
救援のため朝倉からは義景の一族である景健(かげたけ)総大将にして1万の兵を送り込んだ。


織田軍は家康の援軍も含め約3万、一方の浅井、朝倉軍は2万弱。


両軍は姉川を挟んで睨みあい、6月28日早朝まず徳川が朝倉に攻撃を開始し、そして浅井軍が織田軍に突撃を開始。


浅井軍が優位に思えたが、どうもこれは織田軍の罠であったようだ。
浅井軍が本陣に迫ろうとしたとき、徳川軍の右翼にいた稲葉一鉄が横槍を入れ、さらに横山城を包囲していた、氏家卜全丹羽長秀安東守就も反対方向より横槍を入れ、織田軍が浅井軍を包囲する形になり、たまらず浅井軍は撤退。


浅井軍の敗走に連鎖して、朝倉軍も撤退を開始。

合戦は午後2時ごろに終ったとされている。


以前は徳川軍の活躍により織田軍は九死に一生を得たように思われていたが、どうもそれは嘘っぽいようです。