年代 天文15年(1546)4月20日
場所 埼玉県川越市砂久保付近
2007年大河ドラマ『風林火山』で河越の合戦がTV化されていましたが、初めてではないでしょうか?
理由ははっきり分かりませんが、まず北条氏康がちょっと地味ってことと(それなりに合戦はしてるんだけど・・・)、この合戦の史料が少ないということがあげられると思います。
合戦のきっかけは、上杉朝定が河越城を北条に奪われたのがきっかけだが、それ以前にも江戸城を上杉朝定の父親である上杉朝興(ともおき)が奪われている。
そんなこともあって、北条への恨みは深かった。
しかしながら、北条はますます力を増すばかりでとても一人では太刀打ちできないから、それまで仲が悪かったものの、上杉憲政と足利晴氏と協力し、そして今川義元の協力も得ることに成功する。
天文14年8月に今川軍が北条領へ侵攻を開始すると10月には上杉、足利連合軍も約8万の大軍をもって河越城を取り囲んだ。篭城軍は約3千で、城将は北条(福島)綱成。
氏康は河越へ援軍にいきたいが、今川にも攻め込まれており動くに動けなかったが、なんとか今川と和睦することが出来、すぐさま8000の兵を連れて河越城へ向かった。
このときすでに天文15年の4月で半年がたっていたが、河越城はなんとか持ち堪えていた。
氏康は河越城付近、足利晴氏が陣取る砂久保付近に到着するも8万の大軍・・・。
そこで8000の兵を分けて、夜襲をすることになった。
油断しきっていたことから連合軍は爆睡していたようで、この奇襲は大成功し、上杉朝定は討ち取られ、足利晴氏、上杉憲政は一目散に逃げてしまった・・・
とされているが、かなり信憑性がないお話のようで『戦国時代の合戦事情
』にて推測ではありますが、実際はこうだったのでは?ということで、掲載しています。