年代 天正13年(1585)6月~7月

場所 徳島県徳島市一宮町・国府町

長宗我部元親が四国を平定し終わった頃、本州では豊臣秀吉がすでに西は中国~東は甲信越あたりまでほぼ平定し終わっており、日本の中では秀吉に匹敵する実力をもった大名はすでにいなかった。


長宗我部は1585年に秀吉に和議の使者を送るが、秀吉に阿波、讃岐、伊予を差し出すようにいわれて、交渉は決裂した。


元親は阿波の一宮城に主力をおいて、豊臣軍の来襲にそなえた。

一宮城は山城の堅固なお城であり、江村孫左衛門谷忠兵衛をおいた。

篭る兵は約2000。

一方豊臣軍は主力の大将は豊臣秀長で、兵6万、阿波へと進軍。

伊予の国へは毛利輝元、兵4万、讃岐には蜂須賀正勝宇喜多秀家、兵2万と総勢10万をこえる大軍を四国へ向けた。


四国へ到着した豊臣軍は木津城を攻め落とし、一宮城へと向かった。

途中、蜂須賀軍と合流し、力攻めにするも一宮城は頑強に抵抗し、落城の気配をなかなかみせなかったが、一宮城水を絶つことに成功し、また藤堂高虎の軍勢が本丸と出丸の通路を遮断し、落城寸前となった。


このときに秀長は谷忠兵衛に和議の申し入れ、白地城にいる元親に報告に行った。

元親は、秀長の和議の提案に怒りをもって拒否していたようだが、重臣になだめられて、受け入れた。

これにより、長宗我部は土佐一国の大名となってしまった。


苦労して四国統一を成し遂げた元親だったが、ちょっと遅すぎた・・・・。


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