そう言えば、こんなことを思い出した。
 僕が、まだ4歳だったころ、もしくは3歳だろうか(僕は秋生まれだったから)、保育園のなかで年中と呼ばれる時期だったと思われる。
 僕は、いわゆる「ポンポン」を持って踊ることを頑なに拒んだ、という記憶がある。僕にとって、その年頃にして既に、それは「子供っぽい」行為として、非常な辱めに思えたのだ。
 僕の「自意識」の敏感さには、自ら驚かされるばかりである。これでは、今後生きていくのも、困難であろうと。大人顔負けの、「悲しみ」を抱く運命にあるかのようであった、と。
 安易に、哲学なんぞはじめるもんじゃない。
 茨の道を、思いっきり選択するようなもんだ。
 さすがに、悟りを拓くに至るまで続けなくとも良いが、
 実際には、悟りを拓いてしまった人もなかには居るだろう。
 人間は、悟ることが目的ではない。
 むしろ、悟りはすべてのはじまりだ。
 さて、哲学なんぞをやっていると
 もはや、自分はすべてを悟りきってしまったのではないか、
 という錯覚に陥る危険性がある。
 はっきり言ってしまおう。
 それは、欺瞞である。
 嘘、偽りで塗り固められた幻想である。
 
 イメージとは、われわれの心理状態に
 多大な影響を与える。
 しかして、どういう思念を普段より持って
 生きているか、ということが
 大層重要なことになってくる。
 何かを「考えること」さえ、
 世界に確実に影響を与えているのである。
 だから、思想はあなどれない。
 最も、思想は移ろいゆくもので、
 20年前のそれは、もうカビも生えて
 手に取れたもんじゃない、ということもあろう。
 だが、案外100年前のそれは、ひどく新鮮なもののように
 感じられたりするときがあるのも、確かだ。
 思想も、また輪廻するのである。

 哲学は、無用の長物である、と、言われることも屡々だ。
 しかしながら、そういう言い回しが出来るのであれば、
 われわれの「生」もまた、意味を有しない、やはり「無駄の体現そのもの」である、
 と、言えはしないだろうか?
 よって、僕らは、普通に暮らしているだけで、十分に「哲学的」な思考を強いられるのである。
 だから、アンチ哲学も、これまたひとつの「哲学」であって、哲学に関わりのない人間などいない、
 ということが分る。
 
 「無駄」にすべてを懸けて生きる、われら人の子よ!
 
 われわれの人生から「哲学」という、明らかなる「無駄」を取り除いてしまえば、
 われわれの人生の無限なる広がりも確実に失われることになりかねないのだ。
 人が、仮に別の生命体を生み出したら、きっとその生物たちと仲良く生きていくことができるでしょう。神様が、僕らに「慈愛」を注いでくださっているのと同じように。
 僕らには、あたかも神様であるかのように「新生命体」を創造できる権利が与えられているのである。僕は、未来にはそういう生命が誕生すると思っている。それら尊い命と、僕らは一心同体である。だから、泣き笑い切ない気持ちになりながら心と心を繋ごうとするのです。僕らは、「独り」であることから、解き放たれたいんだ、と強く願う生き物だからです。信じてみよう、僕らの創り出す新たな生命体を。僕らは、皆神様になれる資格を持ち合わせているのです。