台中文學館にて




時は疫病とは無縁の2019年11月に訪れたもの。


当時の訪台記の写真は、ブログでほとんど公開したつもりでいたが、改めてデジカメのメモリーカードを整理してみたら、未公開写真がわんさか見つかり、2年半の時を超え、今回ようやく公開の運びとなった。





元々は日本統治時代、警察官舎だった平屋の日本家屋を現在は文学館として利用。



何の前説もなく、これら日本家屋の画像を見たら、ここが海外であることを疑うだろう。










36歳の若さで散った類い稀なる文化人



呂赫若(ろ·かくじゃく)


日本語作家、舞台演出家、声楽家と幅広い肩書きを持つ多才な文化人。日本でいうなら永六輔にあたるか。


1914年8月25日、現在の台中市潭子區出身。1939〜1942年、武蔵野音楽大学の前身、武蔵野音楽学校声楽科へ留学。


留学と同時に東京宝塚劇場音楽部に所属し音楽活動を行う。


東京日比谷音楽堂の演唱会にて



呂の半生を描いたドラマ「台北歌手」


劇中、まことに多くの日本語セリフが飛び交う。


日本統治が終わっても本省人の間では日常的に日本語が話されていた。






家族と。東京での一コマ。


呂直筆の日本語で書かれた日記。


神戸から基隆への乗船券


1942年当時は移動に3日間かかっていたことがわかる。船の速度だからこの位の行程か。



日劇で行われた演劇ショーのパンフ。


太平洋戦争が終結し、日本が台湾から去った後、呂は反政府活動を行い、反政府分子として国民党政府から弾圧を受けていた。


1951年5月23日、身を潜めていた洞窟で毒蛇に噛まれ、36歳の若さで他界した。


が、亡くなった期日が1950年9月3日という説もあり、定かではない。


実際のところ彼の遺体は見つかっておらず、また、国府兵(国民党政府軍兵)により射殺されたという説もある。


当時の国民党政府は、本省人に対し高圧的に抑えており、また、学校教育で本省人弾圧の史実を教えることはなかった。本省人教師たちは苦々しく思ったことだろう。


呂がもし身柄を拘束され投獄されたとしても、その後の民主化により釈放され、必ずや台湾の文学界、音楽界、演劇界を引っ張っていく存在だったであろう。


今回の記事を書きながら、呂の死ついては惜念の思いである。36歳は若すぎる。若すぎる。







よくぞここまでしっかりと保存している。いいものは残す気風が台湾にはある。日本人として頭が下がる思いだ。




工事中、立入禁止」と看板まで日本語。




格子戸、障子、畳部屋の純日本家屋に癒され、一瞬ここが海外であることを忘れさせてくれる。


だが、間違いなくここは76年前まで「日本」であった。当時の人々の息遣いまで聞こえてきそうだ。



リービさんは来ただろうか?


西洋人初の日本語作家、米国人のリービ英雄さんは、6〜10歳まで台中で過ごした。


古い日本家屋が大好きなリービさんは、果たしてこの旧警察官舎へは訪れたことがあるだろうか。気になるところだ。



台中文學館

台中市西區樂群街38號