中正紀念堂
中正とは蒋介石の名。介石はあだな。 中正紀念堂•••つまり、ここは、蒋介石を崇め祭る処。
1907年、蒋介石は20歳の時、清国学生のための軍事教育機関、東京振武学校に入学。新宿区河田町にある今の東京女子医大病院が跡地。
1910年卒業し、同年新潟県高田の砲兵連隊へ軍事教育を受けるため入隊。そのわずか一年後の1911年、辛亥革命へ参加するため、目標としていた陸軍士官学校への道を断ち、清国へ帰国した。
蒋介石は戦後、120万の日本軍将兵と87万の在留邦人を早期帰国させる。その中には根本博中将率いる北支那方面軍35万と居留民4万も含まれている。
根本は、本国からの武装解除命令を拒み、侵攻するソ連軍と、及び国府軍が到着するまで中共軍と交戦し、居留民を守りきった。
一方、共産党支配下の東北部ではソ連軍侵攻とシベリア抑留、引き揚げの大幅遅れ、残留孤児発生と多くの惨劇が続いた。
国共内戦に大敗を喫し、窮地に追い込まれた蒋介石は、国府軍を立て直すべく、旧日本軍将校の招聘を渇望、
また、戦時下、支那派遣軍総司令官だった岡村寧次を中心とする支那通の高級将校面々が、蒋介石の恩義に報いようと1969年結成されたのが日本人軍事顧問団「白團」。
以後白團は、外国人による軍事顧問団としては他に例を見ない20年と長期に渡る活動を行う。いかに蒋介石が彼らを重用していたのかがわかる。
以德報怨
戦後賠償の放棄、連合国へ天皇制維持の進言、前述の在留邦人を無事帰国させる等、これらの点について蒋介石は高評価されるべき人物だが、
一方で、台湾本省人弾圧や戦後の反日教育を主導。ある時は親日。またある時は反日。そして反本省人。
と、このように蒋介石には正負の両面があり、彼が一体どのような心情、性格、思考の持ち主なのか、
わたくしの知識不足もあって深掘りできず、蒋介石の人物像が見えてこない・・・というか、正直掴みどころがない。
沈思熟考するも、蒋介石に対する想いは一つに定まらず、今夜も眠れそうにない。
蒋介石は何者か⋯⋯