職業軍人として、定年退役するまで、その職責を全うした台湾の義父。




義父は、旧日本軍将校を中心とした軍事顧問団「白團」(バイトゥアン)とは、直接的な接点はなかったが、現役時代から彼らの存在はわかっていたという。




当初、義父は「知らぬ存ぜぬ」の一点張りだったが、わたくしがあまりにもしつこく聞くものだから、ついに根負けして彼らの存在を認めた。







台湾における白團の活動期間は、1949~1969年の20年間と長期に渡り、軍内部でも中枢の一部のみ知り得る機密中の機密であった。




しかし、長きも長き20年の活動期間においては、すべて隠密に通すことはできなかったようだ。




当時日本のマスコミは、情報を嗅ぎつけ、騒ぎ立てるも、日本政府及び米国政府は、彼らの活動を黙認、不問に付した。



おそらく、中共側も白團について何らかの情報は掴んでいたであろう。








国共内戦に敗れ、台湾に逃避した国府軍は、疲弊した軍の立て直しが急務であった。




数々の文献によると、大量物量作戦を主とした米軍方式は、大兵力ならともかく、疲弊し敗走を繰り返していた小兵力の国府軍には合わず、




少ない兵力でも戦術により勝利する日本軍方式を強く推し、採用に決定したという。




また、当時米国は、朝鮮戦争、そしてヴェトナム戦争へと次々に参戦し、台湾には十分支援の手が回らなかったのだろう。



まさに国府軍にとっては「頼みの綱は日本」が自然の流れ··· というよりは必然だったのである。














中共大陸からわずか2kmしか離れていないが、台湾が実効支配する金門島。



中共軍から島への砲撃は、なんと1979年まで続けられた。



金門島出身の方に聞いたことがあるが、空襲警報時、島中に管制が敷かれ、夜間一般家庭では消灯が義務づけられていた。



その間、島の受験生たちは、外に灯りが漏れぬよう、豆電球の下で勉強したという、なんとも涙ぐましい話。



また、義父が言うには、中共からの砲弾は、弾道計算をしっかりしていないので、まともに当たらず、まったくの盲撃ちの転々バラバラだったそうだ。



1949年の中共軍上陸戦から幾多の攻撃に耐え、島は強固な防衛により、一度も落城することなく、台湾の実効支配が今に続く。



旧日本軍を知る義父は、士気高く、義を重んじる日本軍将兵を敬服している。白團に寄せる全幅の信頼は、このような想いや経緯から来ているのだと思う。






義父さん、ありがとう!