

朝に日記を更新していたら、お手伝いさんがやってきました。急いで日記の更新を済ませて、朝食の準備をしました。お手伝いさんには、その間に、台所や洗面所、トイレなど清掃してもらいました。今日は少し急いで朝食を食べる必要があります。
今日は10時に、あるお宅に伺う約束をしていました。市内ですが、仙台の中央部の山の上にあるお宅なのです。去年ふとしたことで知り合ったカラオケの先生がいたのですが、私がスタジオ開設の準備で忙しくなって、それ以来没交渉になっていました。その方は、カラオケの先生で、音楽の話をしている内に、もう80歳を過ぎて、年齢なので、使わないからいと、カラオケソフトやアコーディオンなどをただで譲ってくれたのです。
先日の8月のカラオケ大会の案内のために、1年ぶりに先月電話をしてみたのですが、何とその方は亡くなっていました。5月に脳梗塞で倒れ、7月に亡くなったとのことでした。
一度お伺いしなければと思っていたのですが、先方様から連絡があって、様々な機材やソフトを処分したいので、一度来てみてくださいとのことでした。
その約束の日だったので、お葬式は済んでいるので、お花代を持参して出かけていくことにしました。
そのため朝は、急いで朝食を済ませ、9時に前に出発して、お手伝いさんを多賀城まで送ることができないので、近くの駅まで送って行きました。その足で、仙台市の中央部にある八木山のお宅まで出かけていきました。前に行ったことのあるお宅でしたが、国道286号線からの入る道路が分からなかったのですが、何度か回り道をして、何とか辿り着くことができました。本当に山のてっぺんにあるというお宅で、仙台市も本当に市街化が進んでいると思いました。その山のてっぺん辺りも、市街化で密集地域になっていました。同じようなお宅が並んでいるので、なかなか分かりませんでしたが、記憶を辿って、お宅に着くことができました。私も、仙台市でも知らない地域があることが分かりました。本当に山のてっぺんの、全ての地域まで市街化が進んでいました。
お宅には奥様がいましたが、亡くなった旦那様の部屋の荷物を整理したいということでした。音響機材やソフトは、全ていらないので持っていってほしいということなので、一緒に整理しながら、頂いてきました。軽トラックで行ったのですが、全て積むことができないので、積めるものだけを積んで、次回も来ることにしました。その他にもテレビや机なども処分してほしいとのことでしたが、次回積み込むことにしました。様々な機材がありましたが、大体は古いものばかりでした。一応トラックに積み込み、いらないものは私の方で処分することにしました。
汗だくになりながら、トラックに積み込んで帰りました。荷物はスタジオの倉庫を整理して、その中に収納しました。全てが終了して、随分昼を過ぎてしまったので、家に戻って昼食を食べました。ご飯が少ししかなかったので、具沢山の煮込みうどんにしました。少しのご飯と一緒に美味しく頂きました。
昼食の後は、仙台港近くに、軽トラックの給油に行きました。給油を済ませてから、先日決壊した七北田川の様子を見に行きました。河川敷は、すっかり景色が変わっていましたが、係留されている船は無事なようでした。私の船は、修理不能になってしまったのですが、まだ廃船処理はしていません。かろうじて河川敷に置かれていました。そのうちに運んで廃船処理をしなければと思います。震災当時なら、業者がやってくれたのですが、今では自分で処理しなければなりません。その業者を探して瓦礫置き場まで運んでもらうのです。まだ瓦礫置き場には、毎日多くのトラックが行き来しているようです。まだ震災当時の瓦礫の処理に当たっているようです。
まだ田んぼの中には、当時のままに車が数台転がっていました。倒れた大きな筒状の工作物も倒れたままになっていました。まだ震災の瓦礫の撤去が済んでいないことが分かりました。
七北田川から、南蒲生や岡田周辺に行ってみましたが、水は大体引いていましたが、建物はほとんど壊滅の状況で、人が住める状態ではなかったです。昔の風景が一変して、廃墟の町と化していました。ほとんど人もいませんでしたが、所々の家では、修復しているのか数人の人々が働いていました。まだこの場所に住み続けたいと思っている方もいるようです。震災の津波で襲われ、その後、先日の台風で川が決壊して、水没しても、やはり住み続けたい人がいるのだと思いました。本当に震災の爪痕は悲惨そのものでした。
岡田の地域でも、県道の東と西では大きく光景が違っていました。西側は、かろうじて助かり、日常の生活を取り戻していました。東側はほとんど家が壊滅して、瓦礫の町と化していたからです。本当にこれが、かつて「鷺の舞う岡田の田園」と呼ばれた地域なのかと目を疑うような光景でした。
岡田から近道を通って、産業道路に出ました。「三陸道」の高速道路が、高架橋を走る産業道路は、すっかり復旧したかのようでしたが、そこにある大きな総合遊技場は、津波が到達した最も奥の地域でした。地震による大きな被害もあったようです。津波が大きな建物の海側の東側まで来たという話もありました。海岸線から数キロ奥の場所なのですが、この総合遊技場は、スーパー銭湯がまだ再開していません。パチンコ屋だけが再開し、たくさんの客で賑わっていました。スーパー銭湯は、11月頃復活するという情報もありますが、まだ被災した多くの建物が復活できない状況なのです。でもこの辺りはまだいい方でしょう。活気のある地域はいいのですが、津波で壊滅的な被害を受けた地域は、瓦礫が片付けられて後は、荒廃した野っ原のままの状況です。人っ子一人住めない地域になってしまいました。
津波が来るまでは、たくさんの人々が住み、生活していた集落、蒲生、南蒲生、岡田、荒浜、そして閖上の海岸線の集落は、今は完全になくなってしまいました。
高台移転の話もありますが、恐らくこの地域には、人々は住むことができないのかも知れません。昔は素晴らしい海岸風景のこの地域も、津波の被害により、一変していましました。私の知っている懐かしいふるさとの風景は、完全に失われてしまったのです。
総合遊技場の傍を通り、スタジオまで一直線です。スタジオに戻って、明日の「バスツアー」の準備をしていました。
16時半を過ぎたら、ヴァイオリンのレッスン生がやってきました。発表会に向けて頑張って取り組んでいます。今日は新しく購入したヴァイオリンを持参してきました。中国製のものですが、安く購入したそうです。3台目のヴァイオリンですが、このヴァイオリンには満足していました。発表会での演奏曲の仕上げの段階に入っています。ピアノ伴奏で弾けるようになりましたが、まだ右手に力が入っています。手首の力を抜くことを中心に指導しました。この右手のボーイングが一番難しいようです。ヴァイオリンの美しい音色はこれで決まるようです。右手のボーイングの力の入れ方が、音色を決める全てなのだと話しました。まだ手首の力がなかなか抜けません。それでもピアノ伴奏で最後まで演奏できるようになりました。2曲とも演奏できるので、あとは最後の仕上げだけです、音色を美しくする練習に取り組むことです。1時間の練習を終わって帰っていきました。
その足で私は、スイミングの風呂にいきました。今日は、明日「バスツアー」があるので、時間もなかったので、風呂とサウナだけにしました。ヴァイオリンのレッスン生も後から、風呂にきました。常連客が集まり、風呂場で談笑しながら楽しく過ごしました。
スイミングはまたの機会にしました。家に帰って夕食タイムです。明日はいよいよ3回目の「バスツアー」です。早めに休むことにしました。ご飯を新たに炊いて、お惣菜の焼きとりと蒸し焼き野菜で頂きました。野菜炒めは油を使いますが、蒸し焼き野菜は、全く油を使いません。それでも数種類の野菜やきのこを蒸して、塩胡椒で頂くのですが、これが美味しいです。惣菜の焼き鳥を頂きながら、腹一杯ご飯を頂きました。
いよいよ3回目の「バスツアー」、明日は天気になる模様です。段取りの全てが分かっているので大丈夫です。今迄で一番楽なような気がしました。
服装や荷物も必要最小限にし、一番気軽な格好で出かけることにしました。黒猫を締めてラフなスタイルで行きます。荷物も最小限でいいです。最初の時の半分以下になった感じがします。本当に最小の物だけで十分なのです。黒猫だけはきっちり締めないとダメです。それも新型黒猫よりも常用タイプの木綿ニット地が最適だということが分かりました。一番体にフィットするからです。使っていると段々分かってくることがあります。
明日の「バスツアー」も気張らず、疲れず、穏やかに、流れるように過ごしてきたいものです。今回が成功すれば、今度は11月最初の「紅葉狩り、うたごえバスツアー」が4日間あります。美しい景色や温泉を、自分が精一杯癒されながら、楽しんでくることが大切だと思いました。