
今日は朝に日記を更新して、朝食を済ませてから、車を入れ替えて、乗用車に乗り換えてスタジオに行きました。今日は、乗用車に乗る日なので、久しぶりに荷物を積み換えてスタジオ
に行き、メールのチェックをして返信しました。昨日の新聞に「閖上の詩」が載っていたので、名取市役所に電話をして、「ハマボウフウの会」の代表者の連絡先を教えてもらいました。代表の方に連絡をしたら、既にその「詩」には曲がついているとのこと、さらにその作品が
CDになっているので、私が歌声サークルを指導しているセンターに届けておいてくれることになりました。
今、私は、大震災で被災した地域に題材を得た作品を創作しようと思って、その「詩」に作曲しようと思ったのですが、すでに作品になっているとのことでした。CDを頂いたら「閖上の詩」の作品を聴いてみることにしました。聴いてよければ、歌声サークルでも歌ってみたいと思いました。
その他のメールの返信が長くなりましたので、あっという間に時間が経過しました。9時半が過ぎたので、仙台港近くに歯医者に向かいました。10時の予約をしていたからです。先日、歯茎の治療をしたのですが、もう一度、診させてくださいということでした。既に患者さんはいましたが、程なく治療をしてくれました。大体治って、今回で終了することになりました。
その後は、仙台港近くまで来たので、スパ銭の床屋に行き散髪してもらいました。混んでいなくすぐに散髪へ、手慣れたいつもの姉さんに散髪してもらい気持ち良かったです。このお姉さんも上手で、洗髪のマッサージがとても気持ち良かったです。
散髪が終わり、スタジオに戻りました。丁度昼を過ぎたので、スタジオで、「ぶっかけ素麺」を作って食べました。具材は、冷蔵庫にあった野菜サラダやソーセージでした。昼食は、素麺類が適していると思いました。食事を済ませて少し休んでから、車で充電する携帯電話のアダプターを取りに、家に寄ってから、出かけていくことにしました。
南に向かおうと4号線バイパスに出たら、買い物を思い出したので、名取の電気ショップに寄って、デジタルビデオカメラのテープとCD制作用のUSBメモリーを買いました。なるべく検約しようと思って、今までにあるものを使おうと思っていましたが、全部使ってしまいましたので新たな物を購入しました。
その後、仙台空港インターから、東部高速道路に乗って南に向かいました。道路の両側は被災地が広がっていました。普段は、どこまでも続く水田があるのに、全ては耕作放棄地として緑の草は生えているだけでした。それがどこまでも広がっていいて、異様な光景に思われました。ここが大震災の被災地であることを思い知らされました。終点の山元インターで下りました。東部高速道路は、宮城県南部の山元町までしか伸びていませんでした。山元町から被災地の亘理町に向かいました。
ここの荒浜の港は、震災時に取材に来たことがあるけれど、今日は「鳥の海」という湾の向かい側の大畑浜に向かいました。
ここには私が若い頃に、一緒に音楽活動をした友達のお墓があるからです。津波で心配でしたが、津波以来初めて訪れました。この友達は、今から丁度40年前、一緒に音楽活動をしていた時に、冬の海に落ちた亡くなった方でした。当時、私の親友で、私はこの友達無しでは生きていけない程愛していました。
何度も友達の家に泊まりがけで来たこともありました。私の家にも泊まったこともあり、毎日、充実した音楽活動を続けていました。12月の全国大会が終わって、帰って来て仙台のレッスン場で会ったのが最後でした。友達は、職場の友人と「鳥の海」の向かい側にある保養施設で酒を飲み、帰る途中舟から落ちたのです。
当時彼の両親は、海苔の仕事をしていましたので小舟を所有していました。その小舟で向かい側の「保養施設」に行き、帰りは小舟で湾の向かいにある自宅に帰ったようです。
12月14日の寒い季節でした。酔っていたためでしょうか、舟から落ちてしまったのです。それ以来1ケ月も遺体が上がらず、私は毎週のように出かけて海岸を探しました。毎日泣いていました。遺体が上がって、お墓に埋葬されても、毎週のようにお墓に通い、泣いていました。見かねた老夫婦は、私を息子のようにかわいがってくれ、息子が亡くなった後も泊めてくれたり、形見に息子の背広をくれたりしました。
探してやっと訪ねたお墓は、すっかり変わっていました。周りの佇まいもすっかり変わっていましたが、昔の面影が所々にありましたので、何とか行きつくことができました。
お墓のほとんどが、新しい石に換えられた、昔の面影はなくなっていましたが、それより津波の力で、ほとんどの墓石が転がり落ちたり、倒れたりしていました。昔の思い出を辿りながらお墓を探しました、近くにいた地域のおじさんに聞いてやっと分かりました。
昔の話をしたら、40年前の出来事をその方も覚えていました。友の老夫婦も既に亡くなっていましたが、その方は、何とその老夫婦と友達でした。しばし昔の話をしました。
今は倒れた墓石を修復しているとのこと、何人もの職人さんが立ち働いていました。お寺も現存していましたが、津波が来た高さまで壁がはがれ落ちていました。天井近くまで津波が来ました。民家もほとんどが流されましたが、かろうじて建っている民家もありましたが、今は人が住めなくなっていました。そのおじさんにきいて、友達の家の辺りに行ってみました。
40年前の記憶をたどりながらですが、面影が残っていました。高い木があるのを思い出しました。この辺りは、今は亘理町の瓦礫の置場になっていますが、その僅かに離れた場所に、彼の家の跡がありました。記憶が段々甦ってきました。あの時の日々が甦ってきましたが、家は津波ですっかり流され、跡方もなくなっていました。あるのは、土台だけでした。土台を見ながら、当時の家の形を思い出していました。
「鳥の海」の船着き場の近くにある彼の家は、跡かたもなく津波に流されてしまいました。
彼が亡くなった後、東京に嫁いでいた妹が、一家で実家に戻り、別の性を名乗っていたようです。一度その夫婦にも会ったことがありますが、それ以来音信不通でした。私の仕事の忙しさや日々の生活ですっかりご無沙汰してしまいました。
その妹夫婦は、津波で助かり、仮設住宅に暮らしていると、おじさんは話していました。
大震災は津波で、この地域の全てのものを流してしましました。遥か西方の常磐線の線路まで流すほど、奥まで津波が押し寄せました。この地域の人々もたくさん亡くなったことでしょう。助かった人々は、どうして助かったかを考える方が難しい感じがしました。辺り一帯、高い建物は全くないからです。早めに西方に車で逃げた人だけが恐らく助かったのではないでしょうか。逃げなかった人や津波を甘く見た人は、恐らく助かる術がなかったかも知れないと思いました。それほど海岸近くの平坦な地面、周りには何一つ高い建物は無い地域なのです。
全てが変わり果てたこの地域、40年ぶりに訪ねる無礼を、お墓にお詫びしました。あの楽しかった日々、一緒に過ごした日々は何だったのだとうと、走馬灯のように面影がよみがえっては消えていきました。大好きだった友や優しかった老夫婦の面影を抱きながらこれからもしっかり生きて行こうと思いました。
亘理町から、阿武隈川河口に掛る橋を渡って岩沼に入りました。河口に掛る長い橋は津波で落ちなかったのが不思議でした。川幅が広いので、津波の高さが押さえられたのかも知れないと思いました。岩沼の地域も被災地のままでしたが、瓦礫は大分片付けられていました。所々にまだ片付けられていない残骸が残っている程度でした。岩沼インターから高速道路に乗って仙台東インターで下りて家に帰りました。
東インターが家から一番近いインターでした。今日はあまり混雑することなくインターを出ることができました。
今日は月曜なので、市内の銭湯は定休日です。家で新しい風呂を沸かして入りました。夕食タイムで、ビール焼酎、焼き魚、野菜炒めなどを頂きました。ご飯を食べたらどっと疲れが出たのでしょうか、食後はテレビを観ることもなく、熟睡してしましました。夜中の12時頃目が覚めて、頭がすっきりしました。大分疲れていたようです。
今日は、歯医者に行き、散髪に行きました。オフの日でしたので、高速道路を使って外出しました。昔の友のお墓を訪ねてきました。津波で何もかも無くなっていましたが、津波で倒れたお墓を見つけることができました。友の実家は津波で完全に流されて無くなっていました。家を継いだ妹夫婦は助かったと聞いて安心しました。
私の周りで、これまでの人生で失った友が幾人もいて、なかなか墓参りに来ることが出来なかったことをお詫びしました。これからはまたお墓に来たいと思いました。
この所イベントが続いて、疲れが出来て来たような気がしました。体を休めながら、また頑張っていきたいと思いました。
40年前の友の優しい面影と、素晴らしい体を、いつまでも思い出していました。夜のしじまの中に名前を呼ぶと、応えてくれそうなそんな気がしました。