年間ほとんど毎日、欠かすことなく書き続けてきた日記です。結構な厚さになりましたが、自分でも本当に凄いことをやり切ったと言う実感です。大震災が起きて、停電でパソコンが使えなかった3日間以外は、どんな時も日記を書き続けてきました。旅行に出た時も、旅先から日記を載せました。本当に様々なことがあった一年でしたが、終わってみるとあっという間と言う感じです。
その中でやり切って来たこと、前進したことなどの総括はまだですが、恐らくこの一年は、私にとって大きな一年ではなったかと思います。
総括の内容は、後に譲るとして、製本作業の準備ができたので、印刷所に持って行きました。表紙もデザインして、データ-にして準備しました。
お手伝いさんと一緒に、印刷所に出発しました。
電話をしたら、印刷所も、今回の大震災で被災をして、移転していました。新しい場所をやっと探し当てて、依頼してきました。
帰りは、染料を探しに行きました。お手伝いさんに依頼して漂白剤を使って洗濯したお気に入りのシャツが、色落ちして、まだら模様になってしまったからです。汚れた部分を漂白しようと思ったら、他の部分まで色落ちしてしまったのです。シャツの全体を違う色に染めるために、染料が必要なのですが、どこで購入したらいいか分かりません。DIYの店に行きましたが、見つけることができませんでした。染物屋に行けばいいのでしょうが、分からないので諦めてしましました。
家に戻って、昼食を食べました。久しぶりに生麺があったのでラーメンを作って食べました。お店食べるようなラーメンで、お手伝いさんも美味しいと言って食べてくれました。
今日は、音大出の方のレッスン依頼があったのですが、用事があると言って断ったので、午後からオフになりました。
震災の状況視察ですが、仙台より南の亘理荒浜までしか行っていなかったので、さらに南の福島県境まで行ってみることにしました。
車を乗用車に乗り換えて出発した所で、タイヤがパンク、車屋に持って行ったらタイヤ全部がダメだというので、全て新しくすることにしました。家にスタドレスタイヤがあったので、持参して取り替えてもらおうとしたのですが、そうすれば今度の冬には、スタッドレスを新しくする必要があるし、さらに来年の春には、ノーマルタイヤをまた新しくする必要があるということなので、それなら今全部替えた方がいいということで、全部のノーマルタイヤを購入することにしました。
行きつけの車屋なので、若干安くしてくれたので即決で購入し、タイヤ交換することができました。代金は準備していなかったので、その間にATMで下ろして支払うことができました。
新しくタイヤをはき替えてよかったと思いました。家に戻って、スタッドレスタイヤを、元の場所に収納してから、出発しました。
国道4号線仙台バイパスを南下、道路がいつになく渋滞していました。名取から岩沼を経由して、国道6号線に入ります。
阿武隈川の長い鉄橋を渡った辺りから道路が波うっている個所がたくさんありました。段差ができて、応急修理をしているのですが、それでも凹凸がいっぱいありました。道路も渋滞していましたが、亘理から山元そして福島県まで、国道6号線を南下していきました。
道路沿いには、満開の桜が至る所に咲いています。淡いピンクの桜ですが、国道の左側には、果てしなく被災地が広がっていました。亘理、山元辺りは、国道は山側を走りますが、山元を過ぎると福島県まで、ぐっと海に近くなります。津波は国道を越えて押し寄せた個所もあり、右側にも被災地が広がっていました。左側の被災地は、坂元、福島県の新地、相馬市まで、どこまでも戦災のような瓦礫の被災地が広がっていました。
海岸の松林もなくなって、海がすぐそこにあるような気がしました。いかに国道や、JR常磐線が、海の近くを走っているかが分かります。海のすぐそばのJR新地駅は、駅舎がどこなのかもわからない程、何もなくなっていました。崩れ落ちた薄緑色の連絡橋の残骸が、ここに駅があったことを物語っていました。すぐそばには荒涼とした海岸線の残骸が広がっていました。
福島県相馬市まで足を伸ばし、さらに風光明媚で有名な松川浦まで車を進めました。ここは京都の天の橋立と並んで、砂州の地形として全国的に有名な場所ですが、長い砂州は、津波で途中が決壊しているようでした。砂州へ繋がる見事な景観の連絡橋も、流されはしなかったけれど、傷みが激しく、通行止めになっていました。
松川浦の街並みは、建物は全て2階部分まで、波の直撃を受けて破壊されていました。湾内には、まだ幾つもの流された舟や車の残骸が浮かんでいました。
心の中にある思い出の美しい松川浦の景色は、すっかり無くなっていました。恐ろしいほどの津波の破壊力は、松川浦や相馬港の街並みを、全て破壊し尽くし、そこは、戦争の焼け野原のような景色になっていたのです。
そんないたたまれないような景色の中を走りながら、今回の大津波は、東北沿岸の全ての町や村を破壊し尽くしたことが分かりました。
牡鹿半島や三陸の浜でもそうでした。石巻、東松島でも然り、仙台港、蒲生、荒浜、名取閖上、岩沼仙台空港、亘理荒浜でも同じ風景でした。さらに南へ6号線を下った山元、坂本、新地、相馬松川浦まで、全ての街並みが、港が、浜が、すっかり何もなくなっているのです。
かろうじて建っている家々も、立っているのがやっとという感じで、全ての住民が避難所で暮らしていました。津波を免れた避難所は、津波をやっと免れたという感じで、瓦礫の浜から近くの場所にあり、そこは車や人で溢れているようでした。
松川浦を後にして、帰途への道を走りながら、さらに南には、原発事故区域の南相馬があると思うと、福島県の沿岸部は、地震、津波、そして原発事故ともっと深刻で、大変な地域が広がっているのだと思いました。本当に痛ましい悲惨な光景は、福島県の果てまで、どこまでも広がっていました。
帰りは6号線を戻りながら、岩沼から東部道路の高速道路に乗り、東インターで降りて、家に戻りました。東インターも、石巻方面の三陸道から下りる車で混雑していましたが、市内まで最短距離の東インターで下りて、無事家に着くことができました。
家に帰ったのは、時間が押していて19時半を過ぎていました。
すっかり暗くなった街並みに、今日見て来た6号線沿いの壊滅した浜の風景が重なって映っていました。
夕食は、風呂に入ってから、昨日のカレーを使っての、カレーうどん、サラダで、お手伝いさんと美味しく頂きました。
大震災の状況視察は、これで、南三陸の雄勝の浜から南へ福島県まで、全ての浜を視察しました。雄勝から北の南三陸町や気仙沼市は、テレビで毎日のように報道されていますが、一度はこの目で見てみたいと思います。
震災復興の取り組みも始まっていますが、南の6号線沿い地域は、全て瓦礫の山の状態で、復興は全く始まってはいませんでした。
道路が通るような状況になったという感じで、全てはこれからの状態です。
春が訪れで満開の桜の季節なのに、何という寒々とした風景が、そこには広がっていました。何とかして一日も早い復興を、この現実を、実態を、全ての人々に知ってほしいものだと思いました。