多賀城はまだ瓦礫が残っていますが、少しは片付いてきた模様、仙台港から流されてきた大きな木材や丸太が、民家や道路の脇に転がっていました。
お手伝いさんを下ろして、富宮に向かいました。おじさんに連絡つかないけれど、恐らく行列に並んでいると思って、家まで行くことにしました。
家に着いても不在なので、近くの駐車場で休んで新聞を読んでいたら、程なく着信に気づいて電話が来たので、家に寄って行くことにしました。
案の定、8時から3時間近く、行列に並んでいたそうです。富谷は、まだ水が出ないそうです。ガスはプロパンなので大丈夫ですが、水が無いのも不自由な生活のようです。
久しぶりに再会し、地震以来の経過を話し合いました。家は全く被害は無かったようですが、毎日買い物が大変なようでした。手土産は、焼酎とパスタ、家にあったものを手渡しました。久しぶりに話して楽しかったです。昼頃に来客があるので、1時間ほどで帰ってきました。
その頃、兄嫁からメールが入りました。富谷から遠くない仙台の北のスタンドに並んでいるが、ガス欠に近いというので、緊急連絡がきました。果たして何時から並んだのか、長い行列が出来ていましたが、もう少しで給油ができる所まで来ていました。私のガソリンも少なかったのですが、緊急の携行缶に5リットル入っていたので、私の車も燃料が少ないので、半分を給油し、あと半分を兄嫁に携行缶ごと渡してきました。本当にガス欠になった場合に給油するように話して帰りました。
家に戻ったら、お手伝いさんが帰っていました。早めに作業が終わったようで、また避難所のパンやおにぎりをもってきました。帰る途中、泉の飯屋がやっていたので食べてきたのですが、一緒にインスタントラーメンを料理し、野菜を入れ、持ってきたおにぎりで昼食を食べました。私は、飯屋で食べて来たのに何故か食べられました。
昼食後、疲れて来たので横になったら、そのまま眠ってしましました。テレビを付けていたのですが、物凄いいびきをかいて寝ていたそうです。疲れていたのかとびっくりしました。約1時間半程眠って起きたら、またテレビが付いていました。テレビが付いていても、何ともなく眠ることが出来るほど疲れていたのかも知れません。
茨城の兄から宅配の留守電が入っていましたので、17時前に営業所まで取りに行きました。燃料不足で、今は家には配達されないからです。宅配されたものは米でした。仙台の兄弟で分けるようにとのことで、後日分けて届けることにしました。
次は床屋です。いつも行く多賀城の床屋は、津波の被害でやっていません。仙台のやっている床屋をネットで探し、長町まで出かけていきました。顔そりやシャンプーはなしでカットだけ、それでも短くカットして気持ち良くなりました。ここは震災後1週間で始めたそうです。ガスがないし、ボイラーがダメですが、何とか業務を始めていたので助かりました。床屋で兄嫁から電話が入りました。給油がやっと出来たそうです。それも満タンに入ったと喜んでいました。果たして何時間待ったのか後できいてみます。恐らく朝早くからなったのではないかと思います。電話が来たのが18時頃ですから、よく長時間待ったものだと思いました。本当に仙台の燃料事情は大変なものです。1週間で元に戻ると、知事は言っていましたが果たしてどうなるのか、庶民は本当に困っています。道路を走る車が少なくなるような状況になっているのです。
暗くなってから家に帰りました。お手伝いさんは家で休んでいました。
夕食は昨日のカレーライス、野菜サラダで、寛いだ夕食を頂きました。
毎日、あっという間に時間が過ぎて行く感じですが、仕事がなく、ピンチになってきました。大学も当分の間はお休み、カルチャーセンターも被害に遭い休講、スタジオでの個人レッスンもこの事態で全てキャンセル、完全に収入がなくなってしましました。これからどうやってスタジオを立て直していくかが課題です。このような状況の中で、みんなは生活するだけで精一杯です。
被災地では、多くの人々が亡くなり、住む家が流され、生き残った方はみんな避難所暮らしです。復旧作業が少しずつ始まっていますが、みんな生活するのがやっとなのです。
毎日、問題が噴き出る日本の社会状況、原発の問題で、今度は、野菜や搾乳の出荷制限や摂取制限の問題、さらには水道水から放射能物質の検出問題、毎日、次々と問題が発生しています。「ガソリン」問題は過去の問題のように次々と問題が発生し、今度は「水」です。大変な状況が展開しています。
本当にこのような状況で、音楽活動を立て直すことができるかわからない状況なのです。まだガスが無くて、普通の生活には戻ってはいませんが、果たしてこの先どのようになるか分からない状況なのです。
これから音楽活動で仕事をどうやって立て直すか、本当に深刻な状況になってきました。何とか続けられる方策を探っていきたいと思っています。