大震災の始まり その1、その時、大地震、九死に一生 | アカデミー主宰のブログ

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仙台ミュージカルアカデミーの旬な日常情報をお届けします。
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ライブ動画も掲載しました。検索は、ユーチューブで「仙台ミュージカルアカデミーライブ&発表会、花は咲く 荒浜」です。

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 春のうららかな日差しに誘われて、午前中のスタジオの仕事も終了したので、昼食後、14時過ぎに、今度のカラオケ大会に向けて準備のため、グランプリ賞状用紙、トロフィー、コピー用紙等の購入のために、仙台新港近くにあるオフィスヴェンダーに向かっていた。
 スタジオから真東へ一直線、国道45号線に、左折して入ろうとしたら、前に自動車教習の車がいて、スムーズに進まなかったので、仕方なくというより自発的に、文房具屋は後にして、先に船の見分を済ませることにして、車線を変えた。前には大きなトラックがいたが、文房具屋によるよりも、先にこのまままっすぐ進んで、船の見分をした方が早いような気がした。
 三陸自動車道路の高架橋の下をくぐり、田んぼの中の近道を通って、やっと河川敷に到着した。
今思えば14時25分頃であったと思う。うららかな春の陽気に包まれて、静かな春風が流れていた。水面は穏やかで、比較的水は引いているような気がした。先日、おじさんが新たに設置してくれた桟橋に係留された舟は、春風にピンとロープを張って係留されていた。他の係留された舟もいつものように穏やかにきちんと並んで係留されている。春のうららかな日差しで、もうすぐ春の訪れが近いことを知らせていた。
河川敷には、いつものようにここで寝泊まりしている車が止まっていた。去年の秋頃からだから、それも、今では見慣れた風景になっていた。気付いたことは、車の後ろの窓に、河川管理者の通知文書が貼ってあった。ここに不法に車を止めてはいけないと、その文字を読んだ後、文房具屋での課題を思い出し、すぐに文房具屋に向かうことにした。
 あまりに美しい春の光景だったので、カメラに収めることが頭によぎったが、時間がないような気がして、急いで河川敷を立ち去ることにした。時間は14時35分頃ではなかったか。
 どうしたわけか近道を通り、大きな橋を渡って、仙台港内の幹線道路を一直線に、国道45号に出て文房具屋付き、必要なものを店員に聞きながら、てきぱきと購入し車に積んだ。午前中もしっかりがんばり、今日の課題も終えてほっとして、国道45号に出て、スタジオンに向かった。
 いくつかの信号待ちの後、七北田川の橋梁を渡って、信号待ちの後に出発した時であった下から突き上げるような物凄い力で、車が運転できないようになった。一瞬車のタイヤが吹っ飛んだか、突然タイヤが爆発したと思った。
 車が何度もぴょんぴょん跳ね上がった。これでは危ないと静かにわきにより車を止めた瞬間、大きな横揺れが来た。前のトラックにはブルドーザーが積まれていて、ぴょんぴょん跳ね上がり、ブルドーザーが落ちるのではないかと思った瞬間、地震だとわたった。
 周りの車も止まっていた。右側の大きなビルが揺れ、これでもかと思うくらいの横揺れで、ハンドルにしがみつくのがやっとだった。車が横転するのではないかと思った。左側の民家の屋根からは、瓦が鎖のようになって落ちてきた。物凄い地震だとわかった。私はハンドルに必死にしがみつきながら、車が止まって、横揺れが始まってから、歯をくいしばって我慢するように数を数えていた。なかなか横揺れが止まらない、さらに大きな横揺れが、これでもかとばかりに揺れた。大きなビルは必死に耐えているようにさえ見えた。
 カウントは何と83を数えた。83を数えたとき、やっと揺れがおさまってきた。周りの自動車から人が降りてきて震えていた。すぐに戻らなければと思い、ゆっくり車を進め、梅田川の橋梁を渡ったときすごい段差があった。地震のずれだとわかったが、なんとか通り過ぎ、今度は45号線からそれてスタジオへの近道を通って、何とか戻ることができた。
 信号は、全て止まっていたが、車はみんな折り合って、スムーズに進行していた。スピードを出すこともできず、恐ろしかった瞬間を思い出しながら、のろのろ運転で帰った。4号線バイパスを越えて、到着したのは、16時少し過ぎた頃だったような気がする。
 スタジオの中の余りの惨状に驚きながらも、昔、宮城県沖地震を体験しているので、びくともしない気持ちで、今できることだけに取り組んだ。幸いビルは倒壊していなかったし、大きなカラオケのテレビが2台とも落ちないで無事だったのには驚いた。CDラックやCDは、全て落ちて散乱していた。本も下に落ちていたが、大きな本箱は無事だった。ピアノがずれていたが、このくらいはどんまいだと思った。厨房部分の食器棚が倒れて、流しによりかかっていた。 
 全て食器が落ちて割れていたが、今は手を付けるわけにはいかず、とりあえずCD類だけを拾い上げて箱に入れた。花瓶の水も油もこぼれていたが、吸い取り紙で吸い取り、何とか間に合わせることができた。そうやって17時過ぎまでスタジオ内を片づけた。
 今思えばその頃、10メートルを超える大津波が河川敷を襲い、蒲生や岡田の田園奥深くまで入り込み、殆どの民家を飲みつくしていたのである。
 地震発生が14時46分、文房具屋に先に買いに行き、そのあとで河川敷に向かったら、恐らく津波に巻き込まれていたことは間違いない。どんなに早く戻っても津波の早さに勝ことができない。45号線上の文房具屋の後だから、必ず蒲生から岡田の田園を通って、帰ることだろう。その田園を16時過ぎに津波が襲っていたのである。地震に河川敷で遭遇して、すぐに戻っても、田んぼの中で津波に襲われていたであろう。まさに九死に一生を得たようなものである。
 ほんのわずかな判断が、生死の分かれ目になった気がする。先に文房具屋に行く予定だったのを、急きょ舟の見分を先にしたことで、助かったのである。
 津波は、蒲生や岡田の地域を殆どのみこみ、産業道路も襲い、国道45号線ぎりぎりにまで押し寄せていた。私は間一髪で、津波の襲われた区域を逃れることができたのである。
 それも全くの偶然で、これが人生なのかも知れない。その時の舟の見分が、私の舟との別れになってしまった。どこに飛んだか、流されたか、被災地には入れない状況で、全く知る由もない。あの時の舟の姿が、何か私との別れを惜しんでいるようでならない気がする。(これは震災当日3.11分、掲載は3.12分です)
・写真は翌日の蒲生集落入り口付近です。