今日は、前に新曲を披露して欲しいと要望もあったので、その準備をしていきました。演奏に必要な機材や楽譜を、前の日に軽トラックに積み込んでおいたので、必要なものだけを大きなバッグに入れて、バイクで出かけてきました。
会場が街中で、駐車場がないからです。その段取りをして、参加してきました。
10時30分から12時までの流れの中での歌う会なのですが、結論的には行かない方がよかったかなという感想でした。否定的なのですが、結論的には、参加することにより、「他山の石」にしなければならない課題が見えて来たので、参加したことには意義があったのですが。終わってからいろいろ考えてしまい、休日どころではなくなってしまいました。
市内の大きな合唱団の数人の有志が、自分たちの好きなように、いわば自己満足的に楽しみながらの歌う会なので、やはりどこまで行っても、自己満足的なアマチュアの域から出ないものでした。伴奏はピアノ、ギターがあり、別に問題はないのですが、歌わせようとする気持ちはあるのでしょうが、きちんとした指導や方針がないものだから、みんな自分勝手の姿勢で、好きなように歌っている姿が印象的でした。それでいいのだと言えばそれまでのことなのです。
それでも中には合唱団員もいるので、きちんとした発声で歌う人もいましたが、歌わせる側の指導がないからか、姿勢はまちまち、足組みしたり、猫背のようにして下を向いて歌う人も、あぐらをかきながら歌っているようなものでした。
さらに、歌集はあるのですが、みんな歌集に目を近づけて、読みながら歌うような格好で、これでは、気持ち良く声が出せるはずもない状態でした。
でも、それらを改善することもなく、最後までこの感じで歌う会が流れて行きました。
私も、新曲紹介で歌うことになりましたが、歌い終わっても、拍手があるわけでもなく、反応があるわけでもなく、何となく白けた感じがありました。
司会者の問題もあるように思いました。演奏に対して、常にどうあらねばならないか?歌う会の進め方の視点が、根底的に問題があるのかも知れないと感じました。
決して十分な演奏であったとは言えないけれど、歌う会の進め方としては、失格であると感じてしまいました。
その後、歌唱指導もしましたが、みんなで歌った後の印象や反応も今一でした。やはり、みんなの気持ちを、歌で引き出す方針がないからなのか、合唱団員同志の慣れ合いなのか、私のような人間は「招かれざる客」なのだと痛感してしまいました。
どこまで行っても、ボランティアだからといえば済んでしまいますが、自分たちのお楽しみの歌う会とぃう感じでした。
日頃、歌の活動を通して、様々な人と接し、うたごえでは、プロとしての立場で活動そいている立場から見れば、余りにもアマチュアで、配慮に欠け、自分たちの自己満足の域を出ない歌う会になっているように思いました。
人数は12,3人はいましたが、外部の人も入っているのです。私が、日頃目指している歌う会ではないとつくづく思ったものでした。
何も、合唱団内の楽しみの歌う会なら、それでいいのだけれど、外部の人を集めて実践する歌う会としては、私は、これからは「参加できないもの」を感じてしまいました。
結論的には、まだまだ歌う会を実践していく段階ではなく、自分たちの楽しみとしての歌う会の域から出ていないものであると思いました。
私の実践している「うたごえ教室」とは、次元的にも、レベル的にも全く異質なものを感じてしまい、これでは、これからは参加できそうもないものを感じてしまったのです。
何も、私が批判して、そのことを知らせるために言うつもりもありませんが、私が実践していく時は、みんなの心を揃え、引き出し、まとめていくために、様々な方策を講じることが必要であるということを痛感しました。
その方策とは、やはり歌う時の基本的な姿勢や声の出し方を確認しながら、のびのびと真っすぐに声をだし、歌った後に充実感や満足感が得られるように、指導したり励ましたりしながら、常に声を響き渡るように引きだしていくことだと感じたのでした。みんなの声が真っすぐに、率直に出され、全体に響き渡ることを通して、一人一人が納得できる全体の声を創り上げることだと改めて感じることができました。
どんなことでも自分の実践に置き換えて「他山の石」にしていくことが、私の取るべき道なのだと思ったのでした。
批判だけをしても、何にもならないものです。そのことを通して自分の実践を省みること、これがこれからの人生を豊かにしていく道なのだと思ったのでした。
歌う会が終わってスタジオに戻り、持って行った物を収納して、ゆっくり食事をしながら、自分の実践できるスタジオのあることが、いかに大切で素晴らしいことであるかをしみじみ思いました。私は自分のスタジオがあって、ここで自分の実践ができることを思うと、今日の体験も全て自分の実践への「他山の石」なのだと思うことが出来たのです。
やはり、何事も実践していく課題として奥が深いものであることが分かりました。
ある意味では、いい勉強になったのではないかと思い直しているのです。
敬老の日でしたが、人生の課題としてそれなりの学びをすることができたと思いました。
夕方、久しぶりにキャンピングカーを出して郊外を走りながら、自分の今ある幸せをしみじみ感じながら、スーパー銭湯でゆっくり羽を伸ばしてきたのでした。