「影を慕いて」古賀政男の「絶景」愛しき人と青根温泉 | アカデミー主宰のブログ

アカデミー主宰のブログ

仙台ミュージカルアカデミーの旬な日常情報をお届けします。
HPには更新が面倒で記載できない、日々の出来事情報を織り込みます。ご期待下さい。
ライブ動画も掲載しました。検索は、ユーチューブで「仙台ミュージカルアカデミーライブ&発表会、花は咲く 荒浜」です。

イメージ 1

イメージ 2

 昭和の歌謡史上最高の傑作の一つとされ、また今なお燦然と輝
き続ける古賀政男の「影を慕いて」は、彼の処女作であるばかりでなく、人間古賀が、人生の苦悩と絶望の中から魂の叫びとして生み出した作品として、古賀の「人生の歌」でもあり、人間古賀を知る上で最も重要な作品として位置づけられている。
 大正デモクラシーの謳歌の時代は過ぎ、昭和初期は経済的にもいき詰まりの状態で、次第に外に向かって戦争を求めていく時代であった。社会には暗い世相が蔓延していた。そんな時代の中で、「古賀は己のロマンチズムが崩壊し、その絶望から、宮城・青根温泉で自殺を図った。」と一般的には言われている。これはいったいどういうことなのであろうか、古賀の人間は、このとき苦悩と絶望の中で、どんな「絶景」をみていたのであろうか?
 私は自分の人生の音楽活動の経験で培った情報を集約したり、現地調査結果から、この作品は古賀の「絶景」に向かっての人間的な叫びだったのではないかと思うようになった。
 明治37年福岡県に生まれた古賀は、早くから弦楽器に目覚め音楽に親しむようになる。                      
 大正12年3月、18歳で上京、明治大学に入学した古賀は、直ちにマンドリン部を創設し音楽活動を開始した。
 昭和3年11月第13回明大マンドリンクラブ演奏会で、この処女作「影を慕いて」が演奏されたのである。
 いったいこの「影を慕いて」創作・発表までの約3年の間に、古賀の中で何があったのであろうか?
大学でのクラブとしての音楽活動、サークル活動に取り組むようになった古賀は、毎日が充実した人生であった。音楽の素晴らしさを仲間とともに感じ、演奏し、素晴らしい腕前をさらにめきめき上達させていったのである。毎週の、いや毎日のように仲間と集まる例会が楽しみだった。今日はレッスン、明日は演奏と、毎回夜遅くまでの練習が続き、それこそ音楽を通しての人間関係、素晴らしいサークル活動を展開していたのである。
 十数名の男だけのクラブ、楽団の中に「その人」がいた。古賀は、音楽をする楽しさや語り合う充実感に満たされていた。音楽のイメージもどんどん膨らんでいった。いつしか二人は、クラブ以外でも二人だけで会うようになっていた。古賀の想いはつのっていった。酒を飲んで語り合ううちに、ふと酔った勢いで、超えてはならない関係をもってしまったのである。最初は「その人」は遊びであったかも知れないが、純粋な古賀は本気であった。音楽のこと人生のこと、それこそ豊かに語り合った。次第に二人は愛し合うようになっていた。二人で「愛の法則」も話し合った。愛には法則がある、大学で学んだ哲学を駆使して「愛の法則」を築いていった。そこには素晴らしい世界が広がっていた。
 しかし、いつまでも「愛の暮らし」に溺れていることは許されなかった。その人は裕福な家庭の跡取り息子、結婚して家を継がなければならなかった。「その人」は結婚するために古賀のもとを去っていかなければならなかった。でも古賀は忘れることができなかった。会わなければ会いたさ、いとしさがますますつのっていった。
 古賀は、地獄の苦しみの中で、必死にもがきながらも「その人」を求めていた。とうとう青根温泉まで追ってきてしまった。古賀は青根温泉で「決着」させるつもりであった。「その人」をどこまでも求めて生きたかった。
 しかし、それは叶わぬことであった。古賀にとってはもはや生きていく価値はなかった。古賀も前にはもはや死しかなかったのである。
 どんなに素晴らしい恋でも、恋愛でもノーマルでない恋愛は、ロマンチズムの域を出ることができない。必ず悲劇の結末が待っている。社会はそれを許しておくほど寛大ではなかったのである。
「己のロマンチズムの崩壊」は、古賀の中では、仲間への恋、「その男への愛」が打ち砕かれることだったのである。
 青根温泉に投宿した古賀は、「その男への愛」を遂げることができないと感じ、手首を切って自殺を図ったのである。
 死にきれなかった。幸い宿の人に発見され、命を取り留めることができたのである。
生きることもできない、死ぬこともできない状況の中で、その時、古賀は、青根温泉の夕焼けの中に、あの人の面影を映した「絶景」を見たのである。あの人の面影は素晴らしかった。何物にも代えられないいとおしさがあると思った。夕焼けの木立の中に、あの人の微笑みが見える。そうだあの人の微笑みを音楽の中でどこまでも追い続けていこう。古賀は、その時心の中で、そのイメージを作品にすることを誓っていたのである。
 作詞も作曲も古賀自身である。詞の一言一言が、身を削るようにして生み出されたもののように私には思われる。旋律のフレーズ一つ一つが、「あの人」の面影を追っているように思われる。古賀の「あの人」への愛の旋律のように感じるのは私だけであろうか?
 「影を慕いて」はこうして生まれることになったのである。その時の古賀の「あの人」への想いが詞や旋律に、作品に見事に凝縮されていったものなのである。
 古賀は、何とかこの作品を創作することにより、何とか持ちこたえ音楽活動を再開することができたが、本当の意味で心が立ち直ることは生涯できなかった。古賀は人生をかけて「あの人」を追い求めていくことになるのである。
 この曲は、古賀にとって、「あの人」の面影を映した最高に昇華され、形象化された作品となったのである。
 いわば、この曲は、愛する男を思う熱き古賀の心の叫び、魂の叫びだということができるのである。
現在、蔵王山麓の青根温泉には、「影を慕いて」の古賀正男記念館が造られ、また、自殺を図ったといわれる森の中には、記念碑がひっそりと建っている。歌碑の前に立つと「影を慕いて」の音楽が流れるようになっている。
 また、青根温泉のある川崎町では、毎年10月「影を慕いて」の全国大会が開催されている。毎年数百人が全国から応募し、決勝大会ではみんな見事な喉を競わせている。
 今年こそは私は、観客として参加してみようかな、いや実際にエントリーして参加しようかなとか考えている。実際にステージに立つのは無理かな?「影を慕いて」はまだまだ私には難しすぎる。
古賀正男の世界は、それほど深く切ない人間的な魂の叫びなのかも知れないのである

  影を慕いて
      作詞・作曲 古賀政男
まぼろしの
影を慕いて 雨に日に
月にやるせぬ 我が思い
つつめば燃ゆる 胸の火に
身は焦(こが)れつつ 忍び泣く

わびしさよ
せめて痛みの なぐさめに
ギターを取りて 爪弾(つまび)けば
どこまで時雨(しぐれ) 行(ゆ)く秋ぞ
振音(トレモロ)寂し 身は悲し

君故(ゆえ)に
永き人生(ひとよ)を 霜枯れて
永遠(とわ)に春見ぬ 我が運命(さだめ)
ながろうべきか 空蝉(うつせみ)の
儚(はかな)き影よ 我が恋よ

・まさに、古賀の「あの人」への想い、「絶唱」そして「絶景」なのである。