震災ル⑬ 平安時代の貞観津波以来の巨大津波の惨状、壊滅した蒲生集落(2011.4.2記述) | アカデミー主宰のブログ

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震災ルポ⑬ 平安時代の貞観津波以来の巨大津波の惨状、壊滅した蒲生集落(2011.4.2記述)4年前の記述



悪夢のような3月が去って4月がやってきました。あの大津波から3週間、無我夢中で過ごしてきた感じがします。何年分も生きたような感じがします。様々な出来事がありました。本当に悲惨な光景もたくさん見てきました。時代がタイムスリップしたような、夢のような光景を目の当たりにしてきました。本当にこれが夢であったら、そんな気持ちで過ごした3週間、あっという間の時間が過ぎて、今日から4月です。

 朝食の後、お手伝いさんは自転車で多賀城に、私は午後からレッスンがあるので、その準備に向かいました。

春のような陽気に包まれ、人々の目には眩しいような美しい青空が広がっていました。こんな日は、いつもならドライブ日和で、どこかに出かけたくなるのですが、とってもそんな感じにはなれません。燃料難民が依然として続き、ライフラインのガスがまだ復旧していないからです。

 スタジオは、地震で散乱した物は、直後に片付けていましたが、大雑把に片付けただけ、それ以後は、全く音楽活動どころではなく、そのままになっていました。地震以後、初めてレッスン生が来るので、きちんと片づけを始めました。膨大なCDもきちんと並べ直し収納し、机の上の片付け、フロアの掃除などをしていました。掲示物もきちんと掲示し、元通りにしていたら、お昼を過ぎてしまいました。

家に戻ったら、お手伝いさんも帰ってきていたので、一緒に昼食です。昨日のトン汁のほか、焼き魚やサラダ、久しぶりの納豆で食事です。トン汁は1日寝かせた方が、味が染みて美味しかったような気がしました。

レッスンが14時からなので、13時半には戻って準備しました。程なくレッスン生が来ました。今日は、初めてカルチャーセンターのレッスン生が来ました。カルチャーが地震でストップしたので、カルチャーのある地域に住んでいる彼女は、バスでやってきました。 

歌を本格的に目指している方で、今日はヴォイストレーニングを中心にレッスンをしました。いつもはヴォーカルのレッスンなので、ほとんどヴォイトレをしてこなかったのです。課題がヴォイトレだと思っていたようです。ヴォイトレを基本からやってとてもよかったと言っていました。約1時間のレッスンでしたが、最後には得意なカラオケを歌って聴かせてくれました。とても歌心のある方で、スタジオのステージで、伸びのある歌声を聴かせてくれました。レッスンが終わって、コーヒーを飲みながら談笑して、帰っていきました。

 

昨日の避難所回りで使った歌詞カードの曲目が足りないとのことで、大学の事務局で選曲して歌集を作ると言ってきました。選曲したものがFAXで送られてきましたので、チェックして返事をしました。避難所回りの演奏活動が、大学では相当乗り気です。歌集を自分たちで自主的に作る動きになっているからです。紙代や印刷、手間などかかるのに、全部を大学で出して作るのと言うのですから、相当なやる気です。避難所で配布して、回収はしないと言うことです。表紙には大きく大学の名前「○○大学生涯学習センター」の文字だけはしっかり、しかも大きく入っています。やはり私の演奏活動を、大学の活動実績として宣伝する意図があるのだと、ここでも感じてしまいました。チェックして印刷のOKサインを出してやりました。来週もまた避難所回りを企画するそうです。演奏するのは全て私なのに、大学の宣伝活動になっているのです。そして全てヴォランティアなのです。不思議な違和感を、感じてしまいます。

 家に戻って、お手伝いさんを誘い、河川敷の舟の場所に行きました。舟に悪戯されないように、しっかりと所有者の名前を書いて、さらに係留桟橋で使っていたアルミ製のボードを探しに行きました。河川敷に数キロに渡って散乱する瓦礫の中で、アルミボードを見つけるのは至難の業です。双眼鏡を使って探しましたが無理だと諦めました。その後、舟の係留地を見てから、河口近くの大橋を渡って、先日地震の次の朝に訪れた時には、入れなかった蒲生の集落方面に入って行きました。道路が通れるようになっていましたが、蒲生の集落は行き止まりになっていました。

そこにはかつての集落は全くなく、全てが流され、荒涼とした光景が広がっていました。さらに伊達藩の時代から続く有名な蒲生の松林も、すっかり無くなり、数本だけがかろうじて生き残っているだけでした。蒲生の集落が、海までの距離がいかに近い場所にあるか、七北田川の河口左岸に寄り添うように存在していた集落は、堤防もなく海抜ゼロメートル地帯に開けていましたが、今はその面影さえ見ることができないほど壊滅していました。何人かの方が、自分の家のあった辺りで思い出の物を探していました。

蒲生集落には4つの地区があったそうです。日頃から防災訓練はしてきたけれど、地震が起きたその時間帯は、集落には老人が多かったそうです。また老人は、あまり訓練にも参加してこなかったそうです。地震の2日前にも大きな地震があり、その時、津波が来なかったので、みんな「狼少年」になっていたようだと言います。地区の町内会長が避難を呼び掛けて走り回っていたけれど、みんな間に合わなかったようです。1つの地区だけで50人以上が、津波に呑みこまれたそうです。蒲生集落だけで2300人が犠牲になったという話を、そこに来ていた住人に聞きました。

 この悲惨な光景をみれば、いかに津波が恐ろしいかを想像することが出来ます。地上にある全ての人や物、財産を押し流して、全くの荒涼たる原野にしてしまうのです。遠くの全国に知られた蒲生干潟も、恐らく全滅しているのかも知れません。仙台港の工場群が遮るものがなく、いやに近く感じられました。

七北田川の右岸、南側にある仙台市の処理施設の建物も、大きな被害を受けましたが、その大きな建物が防波堤になって、背後の松林が助かりました。対岸の松林だけが、1か所残っていたのが印象的でした。

今回の津波は、西暦866年の貞観津波以来だと言われています。平安時代初期に大津波があったという実証研究をした人が、テレビで伝えていました。その時も今回と同じように仙台平野の奥深くまで津波が押し寄せ、約1000人の人が亡くなったということです。

ほとんど記録にも残っていないけれど、地質学の研究から割り出したそうです。今回と全く同じような巨大津波が押し寄せたと言うことです。

それ以来、鎌倉、室町、江戸時代を経て1000年以上、これほどの大津波は無かったので、これまでの海岸線上の集落が形成されたのですが、それが今回全て壊滅してしまったのです。何と言う時代の巡り合わせなのでしょうか。

貞観津波から数えて、1145年ぶりの巨大大津波によって、仙台湾の海岸線の全ての町や村が壊滅したという事実は、永遠に語り継がれることでしょう。

 蒲生集落の前には、今迄のゆったりとした静かな七北田川の流れとその遠くの夕暮れの情景がどこまでも広がっていました。

 私は311日の地震の起きた時に通ったルートを通って、文房具屋でコピー用紙を仕入れて、さらに倉庫を片付けるための段ボールをたくさんもらって帰りました。当時の話をしましたが、文房具屋は大きな被害はなかったようで、2週間も経過しない323日から再開したということでした。仙台港の区域でも、国道45号線沿いの地域によって被害に違いがあることが分かりました。

 文房具屋を後にして、今日は昨日とは別の銭湯に行くことにしました。銭湯は昨日並ばないで入れたので、別の銭湯には駐車場があるので、そこに行きましたが、やはり風呂難民行列がありました。でも前よりは少なくなった感じでしたが、やはり1時間半程度並んでやっと入ることが出来ました。入口で番号札を渡し、その順番でチケットを購入し、さらに広い待合室で番号が呼ばれるまで待つという方式でした。中に入ってからは暖房があるのでよかったですが、入り口前で待つ時間は長かったです。これでは車を飛ばして秋保に行った方が早かったけれど、最後まで待って入りました。

でもこの銭湯は広々として、お湯が熱く気持ち良かったです。私は昔この銭湯に、約26年前から数年間通ったことがあり、番台の奥さんが覚えていてくれました。奥さんも昔と全く変わっていないと言ったら喜んでいました。何か気をきかせてくれて風呂に入るグループを少し早めてくれた感じがして嬉しかったです。気持ち良い銭湯に入って帰りました。長い時間待った甲斐がありましたが、今日はこの銭湯でよかったと思いました。お湯が熱くて気持ち良かったことが、全てを帳消しにしてくれた感じがしました。明日は温泉か、ここに来るならもっと早く来ようと思いました。

 遅くなってしまったけれど家に帰って、遅い夕食を作りました。時間が押していたので、肉うどん定食にしました。お手伝いさんもそれでいいと言ってくれたからです。私もお酒を頂きながら、ゆったりとした気分を味わうことが出来ました。

 今日も様々な出来事がありました。41日、巨大地震発生以来、初めてのレッスン、気持ちを切り替えて頑張っていこうという気持になりました。まだ見ていなかった蒲生集落の悲惨な現状を目の当たりにしました。若林区荒浜、名取の閖上、亘理の荒浜など見てきましたが、その惨状は目を覆うばかりでした。

平安時代の貞観津波以来の巨大津波が、大地を、人々を呑み尽くした惨状を、これからしっかりと背負って生きていかなければならないと、決意を新たにした一日でした。