大震災の現実 その4、燃料難民と津波直撃の仙台港施設群
4日目、月曜の夕方、姉の家に向かっていた時、仙台駅近くのスタンドで興味ある風景を目にした。延延と続く車の列、スタンドに給油をするために並んでいる車の脇に、たくさんのガソリン給油タンクを持った人が並んでいた。30人から50人位であろうか。もしかしたらここに並べば、燃料を買うことができるかも知れないと思った私は、すぐに家に引き返し、舟の給油に使っていたガソリンタンクを持って、急いでバイクで駆け付けた。車で並んだのでは、買える見込みはない。こんな時はバイクに限ると本能的に感じた私は、とてもラッキーだった。バイクをスタンド脇に乗り付け、17時半には、列に並ぶことができた。一緒に並んでいた人たちと会話をしながら、情報を交換することができた。
住んでいる地域では、まだ電気は来ていないことを話していた女性も、私と同じ若林区からバイクで来ていた。宮城野区の新田から来た若い男性は、昨夜21時に電気が来たと言う。姉のマンションのある駅付近は、2日目の夜には電気が来たと言っていたので、地域によって復旧に差があるのだと思った。
被害の大きかった若林区は、やはり遅れるのかと思った。そんな話をして紛らわしながら、寒空の中待っていた。街の中は、少しずつ灯りが点り、明るくなっていた。1時間10分待って、やっと待望のガソリンを買うことができた。貴重なガソリンである。限度額は4000円だとか。タンクは10リットル入り、満杯にして約12リットル買うことができた。車で来たのでは、何時になるか分からない、それほど遠くまで車が並んでいた。車の並び方をめぐって、大声でのトラブルも見た。本当に大変な状況である。ガソリンが買えない、燃料が買えない、それでも、県の知事は、被災者優先、緊急車両優先で、その他の庶民には、車を控えなさいと言う。私たち市民も被災者ではないか、仙台市内には、どこに行っても、燃料難民が溢れていた。
この風景は、震災発生からずっと続いているし、今でも解消されていない。本当に人々は、燃料を求め彷徨っている難民のようである。
でも私はこの日は、12リットル購入することができたので、嬉しい思いで、姉宅で夕食をいただいた。片付けもあらかた終わる頃で、少し寛いだ雰囲気があったが、病弱の姉夫は、転んで頭を打って寝ていた。
でも夜は、若林区の自宅付近は、真っ暗闇のゴーストタウンであった。早く電気が復旧して欲しいと思った。被災地はもっと過酷な状況で、夜は寒くなっていた。暖房もない家で、かろうじてカセットで湯を沸かし、体を拭いて寝た。
5日目の朝が来た。今日は火曜日、ゴミ出しの日、朝に、まとめておいたゴミや割れた食器ガラス類を出してから、姉の家で食事、冬のような寒い朝になっていた。
でも姉の家で、温かい朝食を頂けるのは幸せである。食後の団らんで会話を楽しみながら、テレビの報道を見るのが嬉しかった。それまで全く映像の情報は見ることができなかったので、大津波の惨状や被災地域の現実を改めて知ることができた。
三陸地域は物凄い状況、町全体が津波に襲われた地域もあるようで、その映像を流していた。一方、南の名取や仙台空港の惨状も目を覆うばかり、福島方面、相馬、南相馬も然りである。津波が集落や田園を襲う上空からの映像を流していた。津波が大地を襲うショッキングな有様を映し出していた。
テレビを見ることができることは、本当に情報取得には欠かせないと感じていた。
4日目(月曜)は、岡田の他に仙台港方面にも足を伸ばした。もしかしたらスタンドがやっているかも知れないと言う淡い期待を抱きながら。私は、燃料はこれまで、仙台港近くの給油所で、カードで入れていたからである。でもそんな淡い期待は簡単に裏切られた。
仙台港そのものが巨大津波の直撃を受けていたからである。仙台港付近のあらゆる施設が無残な状況を見せていた。車が流され、至る所に転がっていた。フリマの開催されるアクセルという施設にも、たくさんの車が波で流され直撃し、累々と車の山を築いていた。イベントホールで有名な夢メッセも、廃墟と化していた。仙台港付近の大きな建物、倉庫類は、皆ずたずたに破壊され尽くしていたのである。
集落付近の惨状とは違って、近代的な港湾の施設も、大きな被害を受けていたのである。夢メッセ付近にイギリスの放送局のチームが、大きな機械を並べて取材活動をしていた。屈強の男たち、5名程のイギリス人がパソコンを使いながら、大きなパラボラアンテナを使って情報を送っていた。片言で話しながら、世界の報道人も動いていることを知った。
産業道路付近も、完全に直撃を受けていた。ほとんど通行不能なほど、瓦礫の山が連なっていた。私が地震に遭遇した地点から、至近距離、私は数百m離れて北側に平行に走っている国道45号にいて、難を免れたのである。その距離1km程度であろうか。音楽活動のための買い物で、文房具屋に寄ったことで助かったような気がする。本当に今回ほど、音楽に導かれて助かったと思ったことはなかった。まさに間一髪で、仙台港の区域から出たので助かったのである。
仙台港には、石油基地のコンビナートがある。そこが爆発し、火災に見舞われ、延延と燃え続けていた。仙台港付近も、完全に大津波によって破壊され尽くしていたことを、私はその時初めて知った。
後で訪れた多賀城も、初めの予想とは異なり、多賀城市内も、完全に直撃を受けていたことを後で知った。
このように海に近い地域は、おしなべて全て津波の直撃を受けていた。車の残骸や瓦礫の山が、うず高く積み上げられていることを、目の当たりにして知ったのは、6日目の午後の事であった。
5日目(火曜)の朝は、姉の家には行かず、家で簡単な食事をした。
準備をしてからスタジオに行ってみた。片付けた後、しばらく行っていなかった。10時40分頃着いたら、電気が復旧していた。灯りがついた瞬間、やっと待望の電気が来たと言う感じ、本当に嬉しかった。
パソコンが使えた。ここからまた活動を始めることにしようと決意した。電気が来た瞬間、パソコンを立ち上げながら、段々やる気と闘志が、湧き上がってきたことを覚える。
こんな大震災でも、決してくじけてはならない。全国の仲間たちが応援している。たくさんの安否のメールを寄せてくれた。心を振り絞って、これからがんばっていきたいと思った。早速パソコンでの活動開始、黙々と文章を書き続けている私だった。
午後15時30分頃、家に戻った時、電気を付けたら復旧していた。やっと5日目で若林区にも電気がきたのである。「やった。」部屋が急に、明るくなった感じがした。本当に嬉しかった。待望の電気、まだガスは来ていないが、もう大丈夫、がんばっていけると思った。ここでもすぐにパソコンンを立ち上げ、直ちに活動を再開していた。
5日目の夜、パソコンの作業をしていたら、突然お手伝いさんがやってきた。雨の中を自転車で、多賀城から1時間以上かけてやってきた。仙石線の電車がストップしている。多賀城の自宅が、津波でやられ、床上浸水になり、近くの小学校に避難したとのことであった。避難所では寝られなくて、5日目でとうとう来たと言う。今日から1週間泊めることになった。
お手伝いさんが来てくれたとことで、私も少しほっとした感じがする。食事をしてきたというので、その日夜、私は姉の家で夕食を済ませ、帰宅した。
これから1週間は、毎日二人で頑張れる。急に大きなエネルギーをもらったような気がしていた。