近代日本百年の絶景、その11、「小野訓導殉職の地、宮城県白石、蔵王町宮を訪ねて」 | アカデミー主宰のブログ

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近代日本百年の絶景、その11、「小野訓導殉職の地、宮城県白石、蔵王町宮を訪ねて」


南蔵王 はるかに眺める 白石川原 

            小野訓導の碑に 藤棚揺れる

今から88年前、大正1177日、当時宮城県の刈田郡蔵王村字宮の小学校教諭であった小野さつき(当時21歳)は、4年生児童56名を引率し、近くの白石川原へ写生に出かけた。七夕の暑い午後の日、課題を終えた子供たちにせがまれて、浅瀬だけの水遊びを許可してしまった。

わんぱく坊主の4年生男子児童は、どんどん遊びをエスカレートさせて水に入ってしまった。その中の男子児童3人が深みにはまり溺れてしまった。それに気付いた小野訓導は、袴のいでたちで水に飛び込み、2人までは助け上げた。

 さらに、周りにいた児童の制止にもかかわらず、3人目を助けるために飛び込んだが、生憎袴の紐が体に巻きつき、3人目を助けることなく、自らも溺れ帰らぬ人となった。

3人目を助けるために飛び込んだその時、水から必死に顔を上げ、早く学校に知らせるように叫んだ。これが小野訓導の最後の言葉になった。

この話は、私は小さい時に母親から教えられ、知識としては知っていたが、殉職の地や現在宮小学校敷地内にある顕彰館を訪ねたのは初めてであった。

この話は、当時日本全国で大々的に報道され、莫大な募金も集まったようであった。追悼の儀式も盛大に行われ、追悼の歌も数曲創られ、有名な歌手や合唱団で歌われたりしていた。

著作物も刊行され、きめの細かい叙述によって、今もなお史実が受け継がれている。学校に隣接した顕彰館には、遺品や記念品、また当時の様子を示す文書の数々が展示され、今も小野訓導の足跡を知る記念館として大切に保存されている。

私はかねてから一度この小野訓導の足跡を訪ねたいと思っていた。

桜の満開の季節、宮小学校にはさわやかな春風が流れ、たくさんの子供たちが校庭で遊んでいた。顕彰館での展示も素晴らしく、細かいところまでいき届いていた。ここでは小野訓導の全てがわかるように、当時の写真などと共に詳しく展示されていた。

初めて宮小学校を訪ねたが、小学校は国道4号線から、北側へわずか約百メートル入ったところにあり、白石川原は、国道の反対側へ約百メートルもない位に入ったところに広がっていた。当時の地形では、国道4号線などなかった時代、道路があっても細い馬車道程度、宮小学校からは庭のような距離で、学校では、校外での学習などに気軽に利用していたものと思われる。

まさかこの白石川で、子供たちが溺れるとは、誰が予想したであろうか?

当時の小野訓導が50名以上の児童を引率して、校外学習に出る無謀さは、当時は判断できなかったであろうし、また、小野訓導の教育判断や指導についても様々な議論があるかも知れない。

4月赴任したばかりの女子の訓導を、一人で校外学習に出すという学校の判断も、今では考えられないことかも知れない。様々な議論があるけれど、小野訓導は、今では、溺れた子供を、教師の使命として命をかけて助け、また、助けようとして自らも殉職した、という一点で「教師の鑑」として道徳教材などに取り上げられ、「生命の尊厳」というテーマの代表として、教育現場で活用されている。

まさに道徳指導の模範として、子供たちに教えられているのです。

この88年前の出来事は、今でも毎年学校において、77日に追悼式を行っており、5年に1回は、大々的に盛大に開催しているということを聞いて、この話は、今でも確実に受け継がれていることを実感しました。

教育の荒廃が進む現代、この100年の教育のパノラマ中で、これほど人の心を打つ話はないかも知れません。

しかし、この88年の間、追悼し続け、鎮魂し続けるのは、大変なことかも知れないし、素晴らしい実践ではあるけれど、私はもっと素直な気持ちで、道徳の模範とか、「教師の鑑」とか、そんな高い所に持ち上げるのではなく、どんなにか夢があり、教育実践に心を燃やしたかったであろう21歳の新任教師の想いを受け止め、その心を子供たちの中に解放してやることが大切ではないかと思うのです。

追悼と鎮魂の想いで、これまで88年間縛り続けてきた小野訓導を、「生命の尊厳」のレッテルから解放してやることなのだと思うのです。

もう十分追悼と鎮魂の想いは伝えたので、今度はもっと人間的な観点で思い遣ることだと思うのです。

20 歳の小野訓導の、生きたかった夢をどう受け継ぐかとか、現代の子供たちや教師たちが、日々を豊かに、実践を通して生き抜くために、小野訓導の本当の願いはいったい何だったのか、私たちの日々の実践や生活にどう反映させていけばよいのか、などに置き換えながら、宮小学校の児童や教職員、いや現代の全ての子供たちや大人たちが、豊かに生き抜いていくために、どう小野訓導を受け止めるのか?など現代的に問い直し、考えていきたいと思うのです。

 小野訓導への追悼や鎮魂の想いだけでは、現代を生きる子供たちや私たちは救われないのです。

日々生きる子供たちや私たちが、豊かに生き抜く力、いわゆを「生きる力」をどう獲得するのか?子供たちに、この「生きる力」をどう育ててやるのか?の観点で、小野訓導という人間を捉え直していきたいと思うのです。

 「たくさん追悼してくれてありがとう。鎮魂の想いをありがとう。それより現代を生きるあなたがたが、私の分まで確かな学びと生きる力を身につけながら生き抜いてください。私はもっともっと生きたかったけれど、あの事故で生きられなかったけれど、もう悲しまないで! その分、未来に向かって生きてください。そのことを私はすべての人に願っています。私の分をしっかり頼みます。」そんな小野訓導の言葉が聞こえてくるようです。

あなたのように・あなたの生き方・小野訓導の墓標に捧ぐ

1 南蔵王遙かに眺める 白石川原

  戯れ遊ぶ幼子の 若き訓導麗しく

   うだる暑さの 気のゆるみ

   幼子流れに 引きずられ

  沈みて遠く 離れゆく

   訓導助けて岸に 泳ぎ着き

   明日のいのちを つなぎゆく

    あなたにもらった このいのち

    生きよう生かそう どこまでも

    

2 豊かな流れと藤棚揺れる 草いきれ

  さわやか眼差し幼子と 率先垂範たゆみなく

   水の流れの すさまじさ

   幼子どんどん 見失う

  水底深く 沈みゆく

   訓導助けて岸に 泳ぎ着き

   明日のいのちを つなぎゆく

    あなたにもらった このいのち

    生きよう生かそう どこまでも

3 南蔵王遙かに眺める 白石川原

  尊き命のかえがたき 力尽きて沈みゆく

   渦巻く流れに 身をとられ

   もがき苦しみ 息絶えぬ

訓導幼な子 帰らぬか 

   助けた命よ ありがとう

   しっかり生き抜く いつまでも

    あなたにもらった このいのち

    生きよう生かそう どこまでも


近代日本百年の絶景、その11、「小野訓導殉職の地、宮城県白石、蔵王町宮を訪ねて」

この随筆は、2010年に訪れた時に執筆したものです。今から93年前の事件になります。