近代日本百年の絶景、その6、「樋口一葉の世界と『一葉記念館』を訪ねて」その1 | アカデミー主宰のブログ

アカデミー主宰のブログ

仙台ミュージカルアカデミーの旬な日常情報をお届けします。
HPには更新が面倒で記載できない、日々の出来事情報を織り込みます。ご期待下さい。
ライブ動画も掲載しました。検索は、ユーチューブで「仙台ミュージカルアカデミーライブ&発表会、花は咲く 荒浜」です。

貧しさを 命削りて 文(ふみ)綴る

         流るる様は 楽(がく)の如し

 

矢のように 流れる流星 一瞬に

         瞬きのごとく 命燃え尽き

 

 文遣い 和漢の文体 織り交ぜて

         式部、納言の 再来想ふ
(一瞬の瞬きのごとく燃え尽きた一葉の24年の生涯を思いて)


東京駅から国電、秋葉原で都営地下鉄、日比谷線に乗り換え、三の輪駅で下車、南口から出て、下町の街並みを南に向かって三丁程歩いたあたり、台東区の中央部、下町情緒を今に残す界隈に、「一葉記念館」を見つけることが出来た。

ウェブサイトの写真では、かなりの大きさのように写っていたが、実際の大きさは、長屋2件程の広さの土地に、目一杯にコンクリート打ち放しの建物が建っていた。全くその狭い長屋のような土地に、マッチ箱のような箱形の建物が、ギリギリの際まで建っている。地上3階、地下1階の「一葉記念館」がそこにあった。

道路を隔てた向かい側が公園になっていて、そこが「記念館」の庭のような佇まいになっている。地域内の道路が、そこだけタイルが敷かれていて、正面玄関前の広場のようになっていた。

要するに「記念館」は目一杯、敷地に建っているが、それ以外の広場や庭は、公共用地が活用されているといった感じで、正面からの「記念館」の容姿は、かなり大きなものに見えるような気がしていた。

実際は、周りの施設は、全て公共用地であり、「一葉記念館」は、長屋2軒分の敷地に建っているというだけであったが、うまく周りの公共用地を活用して、見栄えだけは、かなりの大きな施設のように思われた。


近代日本の百年の絶景を、文学の世界で考える時、私は、迷わず樋口一葉の世界を頭に描き出していた。明治期の日本文学に関しては、全くの門外漢の私であった。

昔、中学時代に文学に熱中した際には、大正期の白樺派の作品に傾注し、高校時代では、世界文学を読み漁っていたので、明治期の文学は、全く学習することなく過ごしてしまっていたが、そんな状況の中でも、中高時代の国語の学習の中で、僅かに出て来て学習した程度であったが、樋口一葉の作品については、少しは知っていると思っていた。

その頃も、一葉の流れるような文体や、和漢混交体の独特の言い回しが気になって、まるで平安時代の女流文学のような文体だと思いながら、その素晴らしさと難しさに、特徴的な文学の世界を感じている私であった。

そんな中でも、樋口一葉の生涯を少しずつ知るようになって、段々一葉の天才的な素晴らしさを感じるようになっていたのかも知れない。


近代日本百年の絶景を探して、それを文学の世界で考えるようになって、私は、ほとんど迷わずに一葉を頭に描き出して、その「足跡」を辿る旅を、それこそ「自然に」、足をそこに向かわせていたような気がしていた。

東京に出て、「自然に」一葉の世界を目指している自分がそこに横たわっていたのであった。


一葉の「記念館」を1階から3階まで、一通り巡りながら、様々な思いを抱き続けることが出来た。独特の文体や、その作品群ばかりでなく、その特異な生涯をも、驚きをもって受け止めていた。

何と珠玉の作品の数々が、亡くなる6ヶ月前までの約14ヶ月の期間の中で、創作されたことを知った。

「奇跡の14か月」と言われる期間に、一葉の珠玉の11の作品が生み出されたというから驚きであった。一葉の作品の代表作と呼ばれる「たけくらべ」、「にごりえ」、「十三夜」などの珠玉の作品が、その中で生み出されていたのである。

何と亡くなる6か月前までの「奇跡の14か月」の前から、一葉は肺結核に冒され、24歳という若さで、明治期の時代を、まるで流星のごとく、駆け抜けていったのである。

生まれが明治5年、1872年で、亡くなったのが明治29年、1896年であるから、20世紀の時代を見ずして、時代を矢のように駆け抜けていったのである。

それは、日本の新しい時代に対応した産業革命の時代ともオーバーラップするが、文学の世界でも、他には類を見ない、流れるような和漢を交えた文体で、珠玉の作品を残しているのは、まさに文学の世界でのルネッサンスとでも言うべきものなのかも知れないと思った。


一葉の作品を一つ一つ枚挙する時間はないけれど、私の問題意識としては、何故これまで多くの素晴らしい作品を、「奇跡の14か月」に生み出すことが出来たのかという一点であった。

果たして、家督として生計を立てなければならないというプレッシャーだけだったのであろうか。上にも姉や兄二人がいたのであるが(5人兄弟の3番目)、全て何らかの理由で、家督になることが出来なかった。

最終的に一葉に家族の生計が委ねられることになるのであるが、小説を書くことで生計を立てるというプレッシャーのみで、あれだけの作品を生み出すことが出来るか、ということである。極貧の生活の中での、貧しさとの闘いがバネになっていたからであろうか。すべての原因は、一応感じられるのであるが、それは決定的なものではないのではないかと、私は感じていた。(続く)