60年前の1964(昭和39)年6月16日、13時1分40秒、新潟県の粟島南方沖約40km(深さ34km)を震源としM7.5、最大震度5(新潟市、長岡市、仙台市(宮城野区)五輪など)の地震が発生。東京オリンピックの開催を10月に控えた高度成長期の真っ只中に、新潟市を中心に大きな被害を受け、山形県の鶴岡市、酒田市でも人的被害が発生しました。

 特徴としては、2週間続いた140基を超える石油タンクの火災延焼、液状化現象による数多くの建物、道路、ライフライン等の損傷、鉄道や空港、港湾設備への被害、特に新潟市内での鉄筋コンクリート造り4階建ての県営アパートの横倒しや、完成して間もない昭和大橋の橋脚の間の路面部分の落下などが、地震の威力を物語っています。津波も日本海沿岸各地を襲い、浸水被害が発生しています。

 震度5を記録した宮城県仙台市では、仙台城の石垣に被害がありました。石垣が変形している状況など、仙台市戦災復興記念館の収蔵写真アルバムで確認できます。

 この地震を契機に「地震保険」の必要性の機運が高まり、2年後の1966(昭和41)年に法律が制定されました。

 全国紙が山形県鶴岡市立の小学校で、地震の翌年から続く追悼式の様子を伝えています。教訓を忘れないよう、これからも続いていってほしい取り組みです。