この日は野辺地(のへじ)の駅前旅館で朝を迎えました。久しぶりの街道歩きで懸念していた足の状態もまずまず。二日目の歩きを始めます。

野辺地駅を通る旧東北本線は、東北新幹線の青森延伸時に「青い森鉄道」として民営化されました。
このため、野辺地を始発駅とするJR大湊線は、他のJR線と接続していない、離れ小島のような線区になっています。(先日の北陸新幹線開通で七尾線が同じようになるまで、JR唯一の「飛び地」線区でした。)


野辺地は、現在は青森県ですが、江戸時代は南部盛岡藩領です。
盛岡藩領で、松前と上方を結ぶ北前航路に最も近い港として、この港からは、尾去沢の銅や、木材などが運び出されていました。往時の繁栄を知る常夜燈(要は灯台ですね。)が今も港に残っています。

仙台から奥州街道を歩き続けて16日目。初めて海を見ました。


河口近くで仕掛けをしていた漁師さん。手元のかごにかかった小魚を網に移していました。何を捕っていたんでしょうね。


しばらくすると野辺地町と平内町の境に差し掛かりました。
江戸時代は、ここより南が南部盛岡藩領、北は津軽弘前藩領(正しくは支藩の黒石藩領)になります。

気持ちよさげにお休み中のチャリダーさんを起こさないように、そーっと、藩境塚に向かいます。


塚が四つ。その間を流れる、桜の木の手前の小川が藩境です。
(国道を歩いていて、この藩境の前までは、バス路線は南方向の野辺地・十和田行、藩境を過ぎたら北方向の浅虫温泉行に変わっていました。何百年も続いた地域のつながりは強いんですね。)


藩境の近くに、津軽弘前藩が建てた墓碑がありました。
戊辰戦争のとき、弘前藩は、当初は奥羽越列藩同盟に与したものの、途中で官軍に味方することとなり、旧暦明治元年9月23日払暁、列藩同盟側の盛岡藩に攻め込んだのですが、27人の戦死者を出して撤退しました。その墓碑です。
ただ、盛岡藩はその前日9月22日に官軍側に降伏しており、弘前藩が何のために攻め込んだのか、いろいろと解釈される史実です。



このあたりから国道4号線沿いの街道歩きが続きます。
ガードレール(というか、歩道の外側の柵ですが)も、「あおもり」です(*^-^*)

   


ところどころで旧道があるとほっとします。
(大型トラックの行きかう国道で歩道のないような場所は疲れるんです…)


小湊(こみなと)の町に入ってきました。この町は津軽三味線の初代・高橋竹山さんの故郷です。
昔、ATGの映画「竹山ひとり旅」で、林隆三さんが演じる竹山が、吹雪の中を三味線片手に彷徨していたのはこのあたりだったんですよね。


町を抜けて旧道を歩いていると天明飢饉の死者の供養塔がありました。
江戸時代以前、寒冷地での稲作には、死を伴う困難さがあったことを思い出させます。


国道に戻る手前で、陸奥湾特産のホタテの貝殻がうずたかく積まれていました。
もし、何千年か後に、未来人がこの貝塚を見つけたら、昔の日本人はホタテを常食していたと思われるのでしょうか(笑)


浅虫温泉まで歩いておきたかったのですが、無理せずに、西平内駅でこの日の街道歩きを終えることにしました。
青森駅まで青い森鉄道で行って、貝焼き味噌で一杯。市場で嫁はんへのお土産に、南部せんべいのミミを買ってから、仙台行高速バスで帰宅です。

日暮れ前のお岩木山のシルエットに見送られながら…


※この記事の写真は5/2に撮影したものです。

(この稿おわり)