今日のお散歩は、今市橋から別れる塩竈街道を歩いて鹽竈神社へ。
薬屋さんの店先にあった道標、良く読めないのですが、ここが利府街道と塩竈街道の分岐点かな?
興味深いのは、陸奥総社宮のすぐ近くに「荒脛巾(あらはばき)神社」があることです。
アラハバキ神については色々な説があるのですが、大和朝廷勢力に抵抗を続けた東北の民の祭神だったとも言われています。
なぜ、そんな神が国府のすぐそばに祭られたのか。
敵方の神を祭ることで敵に攻めにくくさせようとしたという説もあります。
丘を越えると鹽竈神社に着きました。
2週間前に来た時にはつぼみだった鹽竈桜も満開を過ぎて散り始めです。
鹽竈桜はヤエザクラの一種ですが、鹽竈神社の境内にしかありません。
平安時代から歌にも詠まれた桜で、天然記念物にも指定されています。
一度、枯死した木を、30年近くかけて接木で復活させたという感動実話もあります。
薬屋さんの店先にあった道標、良く読めないのですが、ここが利府街道と塩竈街道の分岐点かな?
右の道を行くと多賀城跡があります。
この覆堂の中に、西暦762年に建てられた「多賀城碑」があります。
この覆堂の中に、西暦762年に建てられた「多賀城碑」があります。
碑には、多賀城の京からの里程、再建の経緯などが記されていますが、この碑が歌枕として著名な「壺碑(つぼのいしぶみ)」だとされています。
松尾芭蕉は「おくのほそ道」で、歌枕の多くは長い歳月の間に様子が変わっている、壺の碑に来て初めて、「今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて、泪も落るばかり也。」と書き、生きていて良かった、涙がこぼれると、その感動を顕しています。
松尾芭蕉は「おくのほそ道」で、歌枕の多くは長い歳月の間に様子が変わっている、壺の碑に来て初めて、「今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて、泪も落るばかり也。」と書き、生きていて良かった、涙がこぼれると、その感動を顕しています。
多賀城市のマンホールも壺の碑です。
壺の碑の近くに、大正時代に作られた道標があります。
「右塩釜新道、左塩釜旧道」とあります。当然、左を行きます。
「右塩釜新道、左塩釜旧道」とあります。当然、左を行きます。
少し行くと陸奥総社宮です。
平安時代に、国司が領国内の神社を参拝して回るのを省くために、国府の近くに国中の神社を合祀し、参拝を一か所で済ませた神社です。この神社も陸奥国国府=多賀城のすぐそばにあります。
(備中国総社は「総社市」として市名にもなっています。)
平安時代に、国司が領国内の神社を参拝して回るのを省くために、国府の近くに国中の神社を合祀し、参拝を一か所で済ませた神社です。この神社も陸奥国国府=多賀城のすぐそばにあります。
(備中国総社は「総社市」として市名にもなっています。)
興味深いのは、陸奥総社宮のすぐ近くに「荒脛巾(あらはばき)神社」があることです。
アラハバキ神については色々な説があるのですが、大和朝廷勢力に抵抗を続けた東北の民の祭神だったとも言われています。
なぜ、そんな神が国府のすぐそばに祭られたのか。
敵方の神を祭ることで敵に攻めにくくさせようとしたという説もあります。
丘を越えると鹽竈神社に着きました。
2週間前に来た時にはつぼみだった鹽竈桜も満開を過ぎて散り始めです。
鹽竈桜はヤエザクラの一種ですが、鹽竈神社の境内にしかありません。
平安時代から歌にも詠まれた桜で、天然記念物にも指定されています。
一度、枯死した木を、30年近くかけて接木で復活させたという感動実話もあります。