今日の画像は、スイスアルプストレッキンのスナップ『ラウターブルネンの深い谷の対岸にあるミューレン村』、奥穂高から『難関ジャンダルムを超え西穂高にトライする麻莉亜』、サッカー天皇杯『準々決勝 サンフレ-ガンバの入場券』。そして、本当韋に私の好きな花『ツリガネズイセンⅡ』です。

 

天皇杯順々決勝は、サンフレとガンバの対戦となり、1-2でサンフレが敗退しました。私はこの試合を観戦しましたが、チケットは知人から招待を受けたもの。何と『S席』。観覧席の一番前の列で、ピッチが一番近い位置に。これまでも、これからも、サンフレの試合を観覧席の最前列で観戦することはないでしょう。大変貴重な体験になりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■■撮影が嫌いで仕方なかった。演技が思うように出来ない。監督からは毎日雷を落とされる。特に怖かったのは番匠義影監督と渋谷実監督だった。

 

番匠監督の作品は『ふりむいた花嫁』『のれんと花嫁』など花嫁シリーズに出演した。早撮りが得意で芝居のテンポが速い。セリフもコロコロ変わり、台本の改訂版が日替わりで配られる。だからセリフがすぐに覚えられない。

 

『あのなぁ、学芸会じゃないんだよ。しっかりしろ!』。演技が未熟なうえにセリフがスムーズに出てこないから、監督もさすがにイライラして声を荒げてしまうのだろう。私も謝ってばかり。ストレスはたまる一方だった。

 

松竹の大船撮影所で巨匠と言われた渋谷監督も若手への指導が厳しいと評判だった。『意地悪じいさん』と陰口をたたく者もいたほど。今思い出しても胃がキリキリと痛むのが『酔っぱらい天国』。

 

自分の部屋で新しい恋人(津川雅彦さん)と下着姿デイチャついているところを元婚約者の父親(笠智衆さん)に見つかり、窓際から慌ててベッドに飛び込むという場面。だがいくらやっても監督からなかなかOKが出ない。

『ダメだよ、もう1回』

『違うな、もう1回』

 

監督はこうつぶやくだけ。具体的にどこが悪いのか指摘してくれない。1テイク、2テイク、3テイク、4テイク・・・。相手役の津川さんと汗だくで演技を続けるが、監督は一向に首を振らない。結局、同じ場面を20回以上も撮り直すハメになった。

 

『君には茨城弁の訛りがあるようだね』と監督に言われ、乙羽信子さんの所にアクセントの指導を受けに行ったこともある。乙羽さんの前で台本のセリフを読み、丁寧に矯正していただいた。監督にはまだ新人の私に女優として必要な技術を学ばせようという親心があったのだと思う。

 

でも私は暗いトンネルの中を独りぼっちで必死にもがいているような気分だった。スタジオに入ると床の上に白いチョークでX印が書いてある。その上に立ち、決められたセリフや動作を繰り返す。ロボットみたいで私はそれを窮屈に感じた。自分の気持ちを歌や踊りで自由に表現出来るSKDの舞台がいつも恋しかった。

 

撮影の合間、少しでも時間ができると私は大船からモノレールに乗り、よく江ノ島に行った。そして広く真っ青な太平洋の水平線を眺めながら、ムシャクシャする自分の気持ちを思いっ切りぶつけるように大声で叫んだ。

『お~い、バカヤロ~。もう映画なんてだいきらいだぁ!』

 

そんな日々がしばらく続く。だが映画の出演が増えるに従い、私も次第に有名になってくる。自宅のある滝野川の商店街を歩くと八百屋、魚屋、酒屋、銭湯でおじさん、おばさん達が我がことのように喜び、笑顔で握手を求めてきた。

 

『チコちゃん、この間、映画見たよ。凄いじゃない』

『あんな有名俳優と共演できるなんて、鼻高々だよ』

やがて地元有志による後援組織も結成される。そんな温かい心の支えが身近にあったからこそ苦しい時期も乗り切ることが出来たんだと思う。

 

私の進路が刺激になったのか、滝野川の自宅で一緒に暮らしてきた妹、美津子も1962年春に同じ中学から松竹音楽舞踊学校へと進学。後を追いかけるように5年遅れて芸能の道を歩み始めていた。

 

■■<『JICA物語Ⅰ』北岡伸一>2015年10月、『国際協力機構JICA』の理事長に任命された。旧国際協力銀行JBICの経済協力業務部門と統合じて08年10月に誕生した新JICAの初代理事長は緒方貞子さん。2台目は田中明彦さんである。3代目の私は、途中辞任された田中さんの残りの任期ともう1期の合計6年半を務めた。

 

JICAは政府開発援助ODAの実施に際して中心となる機関である。日本のODAは1990年代後半までの約10年間、金額では世界一だった。しかし、日本経済の停滞もあって、その後は16年連続で減り、ピークの半分くらいになっていた。

 

最初の課題は、その増額だった。それまでの理事長は予算の獲得運動などはしなかったが、私は永田町と霞が関を駆け巡った。在任中は少しずつだったが、毎年増加させた。

 

JICAの大きな仕事はインフラの建設である。世界で定評を得ていたが、近年は苦戦していた。理事長に就任直前、インドネシアの新幹線事業で中国に競り負けた。対抗してインフラ輸出を強化する動きが政府内に出てきた。

 

そこでインフラ4原則を定めた。重要な順に第一に、相手国に真に役立つもの。第二に、日本とその国との関係強化に資するもの。第三に、日本企業が受注しやすいもの。第四に、JICAの財務に無理のないもの、である。つまり、インフラ建設では、日本企業の受注を過度に優先させて、相手国の信頼を失ってはならない、ということである。

 

また、地下鉄や通勤電車を重視した。途上国では、富裕層は運転手付きの高級車に乗り、貧しい人はボロボロの満員バスに乗る。公共交通機関の整備は、自動車の増加を抑え、都市の混雑回避、かつ温暖化対策でも有効である。

 

JICAの新しいヴィジョンを『信頼で世界をつなぐ』と定めた。これはJICAの伝統でもある。途上国に私達の価値を押し付けたりしない。あなたと対等の立場で協力する。だから、欧米はアシスタンスかエイドというが、私達は協力という。これをはっきり言葉にして、名刺に印刷した。

 

理事長1年目は、激動の毎日だった。就任時に次のアフリカ開発会議TICADまで10カ月しかなかった。これまで日本開催だった大規模国際会議をケニアで開くという。本当にできるのか。準備に追われた。

 

しかも事件が続いた。16年7月にバングラデシュのダッカで、JICAの関係者がテロリストに襲われ、7人が死亡、1人が重症を負った。さらに南スーダンで内乱が起こり、JICA関係者70人が危機に陥った。国連平和維持活動PKOに参加中の自衛隊が救出してくれないか、など現地と携帯電話で緊迫したやりとりが続いた。

 

外務省が日本人は全員退避という指示を出した時、日本のある会社は、我々はフィリピン人の労働者を大勢抱えている、日本人だけが脱出することはできない、と言った。サムライ魂は死んでいないと感激した。

 

翌8月のTICADは大成功だった。阿部晋三首相がキーノートスピーチをした。ナイジェリアのオバサンジョ元大統領、リベリアのジョンソン・サーリーフ大統領(ノーベル平和賞受賞)、ルワンダのカガメ大統領、アフリカ開発銀行のアデシナ総裁、コロンビア大学のスティグリッツ教授(ノーベル経済学賞受賞)が参加したパネルディスカッションを催し、大盛会だった。私が司会したイベントとしては、最高の顔ぶれだった。(北岡伸一前理事長筆)

 

■■<終身サポート、『身内頼れず150万円で契約に追加報酬の請求・下』>1人暮らしの男性(72)は、数年前から死後のことを考えるようになった。離婚した妻や子とは長年音信不通。きょうだいも、遠方や高齢だ。頼ることはできそうもない。

 

地元の社会福祉協議会の終活講座で受けたアドバイスは『身元保証人を頼んでおく』『近所の人と仲良く付き合う』。でも、そもそも保証人を頼める身内がいない場合はどうすればいいのか。

 

数年前に葬儀社と契約して、火葬の費用は積み立てていた。ただ、葬儀社への連絡は誰がするのか。死亡届の提出や遺品整理などは――。気がかりはつきなかった。

 

死後事務委任契約は、死後の様々な手続きを友人知人や専門職などの第三者と結ぶ民法上の契約。ラジオのコマーシャルをしていた事業者に資料を請求した。近くのファミレスで女性2人から説明を受けた。『この値段で、最期まで安心できますよ』。提示されたのは150万円。その場で契約を決めてサインし、その足で郵便局から振り込んだ。

 

その数カ月後。『遺言書の作成が必要です』。そう告げられて戸惑った。遺言書の作成は、任意だと思っていたからだ。『なぜ』と聞いても、納得のいく説明はなかった。遺言執行者には、事業者のスタッフがなる、という説明にも不安を感じた。

 

遺言執行者の報酬は、追加で最低でも50万円かかり、死後に財産から差し引かれるということだった。パンフレットを読み返すと、入院時などの身元保証を頼むには30万円を追加で支払う必要があることにも気付いた。

 

死後に本当に契約が履行されるのか、自分では確認できない。本当に全てをこの事業者に任せてもよいのか。遺言は、適切に執行されるのか。預貯金を使い込まれてしまわないだろうか――。悩みはつきない。(石川春菜筆)

 

◆本当に悩みはつきないねえ。都会になるほど、この事業は繁盛するようだ。都会に出た人達は、都会で身内などが存在しないからだ。これはもう、公的機関を設置するしかないが、お役所仕事ではまた問題が起きるよなあ。三井、住友、三菱など信用のある企業が運営してくれれば安心できるのだろうがねえ、まったく。

 

■■<J1広島、首位陥落もサポーターから拍手 指揮官『このチームは誇り』『うまく日程を組んでもらえなかったが…』>

◆明治安田J1リーグ▽第3-0節 鹿島2―2サンフレ(14日・カシマスタジアム)

 

サンフレッチェは8連勝を逃して首位陥落となったが、試合後、スタジアムに集まったサポーターからは温かい拍手が届けられた。

 

8日にルヴァン杯準々決勝でPK戦の末に名古屋に屈し、11日には天皇杯準々決勝でG大阪に1―2で敗戦。散々な1週間を送ってきたが、新加入FWパシエンシア、MF松本泰志のゴールで引き分けた。2―1で迎えた後半37分に同点弾を与え、町田の勝利を受けて首位陥落となったが、スキッベ監督は『2つの強豪が激突した、Jリーグ屈指の素晴らしい試合だったのでは』と振り返り『自分たちのパフォーマンスには満足。このチームを誇りに思う』と手応えを示した。

 

過密日程については改めて『協会、Jリーグにうまく日程を組んでもらえなかったが』と前置きした上で『我々は力を示すことができた』と納得の表情だった。

 

 ◆9月4日◯   1-0名古屋 ルヴァン杯

  9月8日●   1-2名古屋 PK負け

  9月11日●  1-2G大阪 天皇杯 

  9月14日△  2-2鹿島

10日間で4試合。暴挙としかいいようのない日程だ。でもよくやった。鹿島戦でのドローは、その証であろう。町田とは、再来週直接対決がある。ここで負ければ、サンフレはおしまいだねえ。頑張ってほしい。

 

14日の試合、町田―福岡のダイジェストを見たが、チャンスには必ずゴールする町田に対し、チャンスをことごとく潰したサンフレとの差が明確であった。1週間の間があるので、ポルトガルやドイツの勇者を交えて、しっかりと調整し、横浜、続く町田戦を乗り切ってほしいねえ。