今日の画像は、スイスアルプストレッキンのスナップ『アイガーグレッチャーに向かう登山電車からのスナップ・ユングフラウ』、北大路欣也主演の『藤沢周平原作・三屋清左衛門残日録』、奥穂高から難関ジャンダルムを超え西穂高にトライする麻莉亜』。そして、ピンクと白の『西洋サクラソウ』です。可憐な花ですねえ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■■『お引き合わせしよう』

と中根が言った。

 

『われわれの先輩だった三屋清左衛門どのだ。この試合の立会い人をおねがいした』

甚之丞はちらと清左衛門を見ただけだった。頭も下げなかった。木剣をつかむと、ゆっくりと道場の真中に出て来た。

 

『では、はじめ』

清左衛門は、中根に言われた通りに声をかけると、いそいで師範席までしりぞいた。

後は勝負を見届けるだけでいいと言われている。

 

師範席の両側には4本の燭台が置かれ、百匁蝋燭が油煙を吐きながら燃えている。その光の中で、中根と納谷は木剣を持ってむかい合った。

と見る間もなく、2人は言い合わせたように、床を摺る音を立てて後ろにさがった。距離およそ6間ほどで、2人は足をとめ、構えを固めた。中根は青眼の構えのままだったが、納谷甚之丞はしりぞいて向かい合うと構えを八双に改めた。長身の甚之丞の八双の木剣には、威圧感があった。

 

その構えのまま、2人は今度はひたひたと前に出た。そして距離を3間に縮めると、そのまま動かなくなった。しかし、腰も上体も微動もしていないように見えた。

 

およそ半周したところで、2人は動きをとめてまたにらみ合った。そして、ついに甚之丞が仕かけた。甚之丞は3間の距離を瞬間に詰めた。同時に中根の身体も躍動し、2人は気合いを発して打ち合った。甚之丞の木剣は中根の胴にのび、中根の木剣は甚之丞の眉間に詰めたように見えた。そして戛戛と木剣が鳴った。

 

木剣の試合だから、身体には当てないはずである。だが、2人は勢いあまって擦れちがうと、そのまま前に走った。そしておどろいたことに、振りむくと同時に2人は素早く走り寄り、ふたたび猛然と打ち合ったのである。甚之丞の打ち込みがわずかに早く、その木剣は中根の頭蓋を砕いたように見えた。

 

――これは真剣勝負だ。

ほの暗い天上に、2人の影が揺れて躍るのを感じながら、清左衛門は思わず目をつむった。その時異様な物音がした。

 

■■<ノーベル賞 本庶佑『オプジーポ・小野薬品との係争・Ⅱ』>しかし、私はがん免疫性の『PD-1』に関する製薬開発はどうしてもあきらめ切れなかった。『ならば小野さん降りてくれ』。自らの手で開発してくれる企業を探すことにした。

 

米シアトルに大学教授であり免疫関連の医薬品開発を手掛けるベンチャーを起業した友人がいた。渡米し、『PD-1』の開発経緯や成果について半日かけてプレゼンテーションをしたところその友人は『やる』と即答してくれた。ただ、一つの条件を提示してきた。共同出願者の小野薬品が権利を放棄するか、専用実施権の同意がほしいということだった。

 

帰国後、パートナーが見つかったことと、『PD-1』について今後一切手を出さないでほしいと、小野薬品の担当者に伝えた。少し考えさせてほしいと言って帰っていったのだが、3カ月ほどして今度は一転、『うちで開発をやる』と言ってきた。

 

おかしいなとは思ったが、深くは問い詰めなかった。『やる』のであれば、有り難い。小野薬品の意向に同意した。

 

後から分かるのだが、04年頃、メダレックスという米ベンチャーが開示された『PD-1』特許を見て、小野薬品に共同開発を申し入れたのだ。この米企業は薬の原料となるヒト型モノクロナール抗体を作る技術を保有しており、『PD-1』抗体を持っていたのだ。06年、がんが進行し手の尽くしようのない末期がんの約200人を対象に安全性を確認する治験が始まった。

 

そして09年、米プリストマイヤーズスクイプBMSがメダレックスを買収した。資本力のある巨大製薬会社が主導権を持ち、治験は一気に加速する。

 

これまでの抗がん剤にない驚異的な有効性を持つ『PD-1』抗体、製品名『オプジーポ』は14年、メラノーマ(悪性黒色腫)を対象として承認された。

 

進捗状況について小野薬品からは知らされなかった。オプジーポ誕生の喜びとは裏腹に、私の中に小野薬品への不信感が芽生えていった。(本庶佑筆)

 

■■<小学4年生『運動会にいろいろな思い出』>運動会の当日、わたしはどきどきしていました。昨年の運動会は、熱が出たため出られなかったからです。

 

今年も、ゴールデンウイークが明けて運動会の練習が始まった頃、朝夕の気温の差が大きいためか、鼻水が出たり、せきが出たりしました。だから、今年は運動会に出られるように、しっかり食べて、ねむって体調を整えました。おかげで、無事参加することができました。

 

一番楽しかったの競技は高学年リレーです。昨年はあまり練習ができなかったバトンわたしも、今年は説明を聞いたり、練習を何度もしたりできました。本番では、前の人からしっかりバトンをもらい、次の人にうまくバトンをわたすことができて楽しいと感じました。

 

来年、6年生になることを意識して、6年生の動きも見てきました。下級生のために早めに準備をしていました。わたしたちもこんなにてきぱきできるようになりたい、と考えた運動会でもありました。(中国新聞投書 三次市 女子10)

 

◆健気だねえ本当に。しっかり食べて、しっかり眠って、しっかり走って、素晴らしい大人になっておくれな。

 

■■<瀬戸内高校『野球部女子部員に出会う』>先日の土曜日、牛田山トレッキングに出掛けた。千田町から登山口の二葉中学校北まで自転車で30分の道のり。広島駅付近は、開かずの踏切で有名な愛宕の踏切を渡り牛田山を目指す。

 

踏切を渡り北進し、愛宕郵便局前交差点で赤信号。一旦停止し、ふと見ると目の前に女子高校生らしき自転車が停止していた。パックを背負っており、『SETOUTI 田中』の文字が刻んである。

 

声をかけた。『夏休みはまだかえ?』『今夏休みです』『というと、部活で登校か?』『そうです』『何部?』『野球部です』『青春はひと時、力いっぱい頑張ってね』『はい』。

 

はて、瀬戸内高校に女子野球部があったかなあ・・・。広島では佐伯高校野球部が発足し話題を呼んだのが一昨年程度だったが・・・。

 

瀬戸内高校野球部を検索。あった、野球部。部員:男子60名、女子0.ふーん、と、マネージャー:女子8名。この田中さんという瀬戸内高校の生徒は野球部女子マネージャーだったんだねえ。

 

瀬戸内高校はもと松本商業高校と冠し、男子校だった。が、その後瀬戸土高校と改名して、男女共学の高校になった。スポーツでは野球、サッカーに強く、常に県大会では上位進出をしている。

 

田中野球部マネージャー、甲子園を目指し、最後まで広島大会を勝ち抜いてね。青春真っ盛り!