今日の画像は、スイスアルプストレッキンのスナップ『ラウターブルネン、夕映えのシルクホルンⅡ』、北大路欣也主演の『藤沢周平原作・三屋清左衛門残日録』、奥穂高から難関ジャンダルムを超え西穂高にトライする麻莉亜』。そして、私が歩いたサンチャゴ巡礼路『ピレネー超え②』です。巡礼の初日、フランスの町サン・ジャンからピレネー山脈を越えてスペインに入ります。この道は、『フランス人の道』と呼ばれていますが、ナポレオンはこの道を登り切った峠で見晴らし『ここはアフリカか』と語ったと伝えられています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

           <カナダの女性>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■■『ほほう、果し合いとな』

清左衛門は眉をひそめた。大塚平八郎の病間から持ち帰った重い気分も疲労感も忘れていた。中根の言っていることは尋常ではないが、相手があの甚之丞なら、あり得ないことではないという気がした。

 

『急にそう申し上げても、ご納得がいかぬかも知れません。事情をお話ししましょう』

と中根が言った。

 

先代との試合に敗れて破門されたという話は、先代の中根与一右衛門がまわりに話したことで、事実ではなかった。試合の真相は中根道場の後継者争いで、甚之丞と試合したのは弥三郎で、当時の渕上弥三郎である。

 

この試合で弥三郎は甚之丞に勝ち、1年後に与一右衛門の娘杉乃と祝言を挙げ、中根道場の後つぎとなった。一方の甚之丞は、試合に敗れると間もなく、剣術修業を名目に藩に離藩願いを出し、許しを得ると領外に出てそのまま行方をくらました。

 

『その甚之丞から、昨日飛脚をもって手紙がとどきました。今初雁宿に滞在しているそうで、文面は修業を積んでようやくそれがしに負けぬほどの技を会得した、立ち会ってもらいたいという簡単なものでした』

初雁というのは隣国の宿場である。山ひとつ越えたところまでもどって来たということらしかった。

 

『何年ぶりの便りかの』

『ざっと30年ぶりになります』

『30年・・・』

清左衛門は背筋にうすら寒いものが走ったのを感じた。異常な執心だと思った。

 

『その間、かの男は一度も国に帰らなかったのか』

『そのようです』

『藩が、よく黙認していたものだ』

『いえ、一度納谷の家の者にお叱りがあったそうです。しかし甚之丞は冷や飯喰いの4男でもあり、藩でも深くは咎めなかったと聞きました』

 

■■<私の愛唱歌『君こそ命』>

  歌:水原弘  作詞:川内康範 作曲:猪俣公章

 

あなたをほんとは さがしてた 汚れ汚れて 傷ついて

死ぬまで逢えぬと 思っていたが

けれどもようやく 虹を見た あなたのひとみに 虹を見た

君こそ命 君こそ命 わが命   

 

あなたをほんとは さがしてた この世にいないと 思ってた  

信じるこころを なくしていたが けれどもあなたに 愛を見て

生まれてはじめて 気がついた

 君こそ命 君こそ命 わが命  

 

あなたをほんとは さがしてた その時すでに おそかった

どんなにどんなに 愛していても  あなたをきっと 傷つける  

だからはなれて 行くけれど

君こそ命 君こそ命 わが命

 

◆『君こそわが命』『黒い花びら』『黄昏のビギン』などヒット曲を歌った水原弘は、1978年7月5日、43歳の若さで没した。酒乱による乱脈生活によって、内臓疾患を患い亡くなった。まさに短命であった。

 

■■<武田惇志、伊藤亜衣共著 『ある行旅死亡人の物語 「あとがき・下」』>この取材では本当に『A』に恵まれた。貴重な時間を割いて取材に応じていただいたすべての方々に、この場を借りて篤くお礼を申し上げたい。

 

とりわけ、アポなしの訪問にもかかわらず話を聞かせてくださり、その後も協力いただいた沖宗正明さんや、取材班の一員のように共に家系図を作りに精を出してくださった沖宗生郎さんをはじめとする多くの『沖宗さん』達に、また、私達を取材の旅に引き込んだ弁護士の太田吉彦さん、アパートを案内していただき、さらにはユーモアを交えて記憶を語ってくれた宮城ヒナさんとご家族、素敵な笑顔で昔話をしてくださった川岡シマエさん、病を押してインタビューに応じていただいた丹羽和光さんら、千津子さんが暮らした広島、小用、尼崎で出会った皆さんに。本当にありがとうございました。

 

共同通信大阪社会部の真下周デスクには、取材の初期から相談に乗ってもらい、助言をいただいた。改めて謝意を表したい。

 

イラストレーター高姸さんには、一度見たら忘れられないようあ、ノスタルジックで詩情溢れる装画を描いていただいた。しがない記者2人の手になるにもかかわらず、本書を手にとってみようという方がいるとすれば、ひとえに彼女のお陰だろう。

 

毎日新聞出版部の久保田章子さんには、単行本の執筆という未曽有の仕事に立ちすくむ私たちに対し、最後まで根気よく叱咤激励していただいた。彼女のセンスと情熱なしに本書が形になることは絶対になかった。

 

そして沖宗千津子さん。あなたに一度、会ってみたかった。

 

  2022年10月                         武田 惇志

                                    伊藤 亜衣

 

◆本当にこの本は面白かった。久しぶりに、没頭して読み上げた。たった4時間で完読。しっかしすごい内容ではあったな。2人の記者の努力に感嘆である。

 

■■<米『ネオナチをやめた夫婦』>大統領選挙まで4カ月となったアメリカに舞い戻った。大統領選の年はいつも人種や宗教をめぐって対立が強まる。8年前に取材した、ペンシルバニア州ユリシスに住むネオナチの夫婦はどうしているだろう。

 

全米最大のネオナチ組織『国家社会主義運動NSM』の幹部だったダニエル・バーンサイド(49)の自宅を訪ねると、屋根にあったナチスの旗も、庭に立っていた『カギ十字』もなくなっていた。『今年1月にやめたんだ』。ダニエルと妻のサブリナ(36)が笑顔で迎えてくれた。『俺達は間違っていた』。今後は白人至上主義グループから抜け出そうとする人達を助けたいという。

 

180度の転換だ。最初に夫婦に会ったのは2016年末、トランプ前大統領が勝利して全米の白人至上主義者が『ホワイトハウスに味方を得た』と勢いづいた時だ。ダニエルは『ユダヤ人の支配と移民が存在しない米国をつくる』と息巻いていた。18年春に再訪した時は、インターネットの会員制のラジオ番組でユダヤ人や黒人に対するヘイトスピーチを発信していた。

 

今は庭木の伐採や倒木の片付けを仕事にし、廃木で木彫りアートを作る毎日だ。ネオナチを離れた理由を聞くと、サブリナは『子供達の為よ』と即答した。

 

2歳から16歳まで11人の子供がいる。夫婦は子供が学校で歴史を学ぶことを許さなかった。ヒトラーやホロコーストについて自分達の主張と違う知識を教わるからだ。子供達に黒人と会話することも禁じた。だが、成長するとこうした制約が子供を苦しめるようになった。例えば、中学校の課外授業は首都ワシントンにあるホロコースト博物館の訪問だった。

 

『子供達は他の子と一緒に勉強したいと希望し、課外授業にも行きたがった』。このため制約をなくし、活動もやめたのだとうい。

 

サブリナ自身も、10年間続けたネオナチ活動にうんざりしていた。『周囲の人間を憎みながら暮らすのは本当にキツかった。人生を無駄にした』。そしてその後、長男長女と一緒にホロコースト博物館に行った。

 

新たな人生を始めた一家の前途は多難だ。ネオナチをやめたということを公表すると、白人至上主義者から『殺してやる』といった脅迫メールが送られてくるよになった。地元民の反応も厳しい。近所に住む女性は『ネオナチをやめた?信頼出来ない』と首を振った。

 

だが、励ましてくれる人もいる。ダニエルはテキサス在住の男性からメールを受け取ったばかりだった。『ヘイトグループをやめると宣言しただけでなく、近隣住民と関係を改善したいという君をネットで見て、驚いた。さぞかし勇気がいったことだろう』『これからの道は厳しいぞ。でもそこから出たいと思った君を誇りに思っている』。

 

ダニエルはしみじみとした表情を浮かべた。『こういう手紙が本当に心の支えになるんだ』。私は思わず声をかけた。『私も応援しているよ』。

 

ヘイトグループを監視する民間団体『南部貧困法律センターSPLC』によると、黒人やユダヤ人、移民などを攻撃するヘイトグループは14年に784団体あったが、23年には1,430団体にまで増えている。アメリカは憎悪に満ちている。最後に愛が勝ってほしい。(國枝すみれ筆)

 

◆本当にアメリカの過激集団は過激だなあ。あのKKKを始め、白人崇拝主義団体は殺人など平気で行う恐ろしい集団だからなあ。アメリカは私には理解できない。桐島洋子だんだってあの『淋しいアメリカ人』で、アメリカ社会は理解に苦しむと記述している。