今日の画像は、スイスアルプストレッキンのスナップ『ミューレンからの下山道』、北大路欣也主演の『藤沢周平原作・三屋清左衛門残日録』、徳島県の岩島・大辰巳島の『前人未踏の辺境クライミングルートを登る麻莉亜』。そして、珍しい花『キルタンサス』とポピュラーな『西洋サクラソウ』です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■■――そのかわりに・・・。

夢をみるようになったのだ、と冬の朝の床の中で清左衛門は思っている。夢が時折り清左衛門をおとずれて、かさぶたの下に隠れている古い傷をあばく。しかも夢の中の後悔の念は、だんだんに強くなるようだった。それも老いるということとかかわりあいがあるような気がした。

 

――死ぬまで・・・。

こんな夢を見続けるのはかなわんな、と清左衛門は思った。そして、そう言えば小木慶三郎の左遷の真の原因をつきとめたいということを一度もしていないことに気づいた。

あれはやはり、わしの告げ口のせいだったのだろうか。

 

台所の方で女たちが立ち働く、ひっそりとした物音が聞こえて来た。障子を染める朝日の光は、清左衛門の長い思案の間に日の色に光っている。今日の日がのぼったのだ。

 

――小木慶三郎に・・・。

一度会ってみよか、と清左衛門は思った。

 

『小木はたしか、代官を勤めたのだったな』

清左衛門は言った。

『それより上には行かなかったか』

『代官どまりだ。宮内さまのひきがあるから郡代までいくのかなと思ったが、案外に出世しなかった』

と町奉行の佐伯熊太は言った。

 

町奉行の奥の部屋で、風邪気味だという佐伯は、大きな唐金の火鉢に炎が上がるほどの炭を焚いている。清左衛門には暑すぎるようだ。

 

『家は鳥羽町かな』

『いや、代官になった時に与力町に移ったのだ。小木慶三郎は隠居したが、家はそのままのはずだ』

『そうか、やはり隠居したのか』

『何だ、小木のことはさっぱり知らんらしいな』

と佐伯が言った。

 

■■<栴檀は二葉より芳し『ノーベル賞受賞本庶佑の少年期・上』>中学生になると、がぜん勉強が面白くなった。1学年15クラス、500~600人の生徒がいる宇部市立神原中学に通っていたが、最初の試験でベスト10に入った。勉強は裏切らない。やればやるほと成績は上がった。周りからも褒めてもらえる。あっという間に学年トップになった。2年生の時、担任の先生に頼んで、本来は3年生を対象にした高校受験のための全国模擬試験を受けさせてもらった。試験当日、周りの上級生からはじろじろ見られたが、構やしない。結果、山口県では10番以内に入った。

 

これでますます調子にのった。旺文社の参考書や問題集、月刊誌を買い、独学で先へ先へと進んだ。この頃は勉強が楽しくて仕方なかった。成果が見えるということに夢中になった。

 

使える英語力も身に付けた。父がカナダのマギル大や米国のシカゴ大に単身で2年余り留学することになったのだが、渡米前に指導をうけたという宇部在住のハワイ生まれの日系2世の方に私も家庭教師をしてもらった。『将来、必ず英語は必要になる』という父の勧めで、英語の英才教育は高校卒業まで続いた。

 

科学という世界は国に関係なく国際社会を舞台に競う。公用語となるのは英語だ。論文を書くにも講演をするのにも、あらゆる場面で英語の心配をせずに済んだのは、科学者として後々、大変ありがたかった。

 

昔から国際学会に出るとよく『ネーティブのようだ』と言われるが、これは中学・高校時代の『猛特訓』のたまものだと思う。

 

 

◆やっぱり、ノーベル賞を受賞するような人は、幼少期から人並みを外れた生活をしているんだと、この記事を読んで関心した。『中学・高校時代の猛特訓のたまものである』は、何物にも代えがたいことではあろうなあ。本庶らしい。

 

◆私にもそんな思い出がある。中学時代、それほど勉強はしなかったが、学級で1位になり、学年でベスト10に入っていた。公立高校に進学して、早速学力テストがあったが、その時300人中24番であった。が、当時の広島大学の入試状況からすれば、教育学部がセーフラインで、政経学部、工学部はボーラーライン上であった。でも、高い順位に位置づけられることは、悪い気がしなった青春の思い出がある。

 

■■<広島電鉄、京都から移籍『1900形2両、引退』>広島電鉄の路面電車で、京都市電の廃止に伴い移籍してきた1900形の車両2台が7月に引退する。京都にちなみ『桃山1902』と『舞妓1903』の愛称がついた車両。7月にあるラスト運行と撮影会で、45年にわたって走り続けた広島の街と市民に別れを告げる。

 

1900形は屋根の両サイドに付いた前照灯と車体中央のオレンジのラインが特徴。頑丈で整備もしやすい。広電は1977~78年に計15両を購入した。『東山』や『金閣』など、公募で選ばれた京都の地名や名所にちなんだ相性を車体の前後左右に掲げている。

 

『桃山』と『舞妓』は57年の製造。広電の車両の中でも古く、78年に移籍した。2両は運行に支障はないが新型車両への移行を順次進める中、現役を退く。1900形の引退は初めて。

            <1902 桃山>

 

2両は既に営業運行を終えているが、7月6、7、13日に『さよなら運行』をする。江波-横川駅間を各1往復し、誰でも乗車出来る。14日は千田車庫で有料の撮影会があり、1900形の全15車両を集める。午前と午後の2部制で、午後の部はつり革の持ち帰りや車内部品の入札もある。6月28日午後3時からイベントサイト『Peatix』を通じて申し込む。先着順で各回50人。

 

◆ついに京都市電からの移籍つけていた。なつかしい。

           <1903 舞妓>

 

 

■■<案の定、息子のために席譲る『二階俊博元自民党幹事長』>自派の政治資金不記載を受け、次期衆院選不出馬を明言した二階俊博。確か、その理由は『自らの政治責任を明らかに』するためだった。

 

でもね、みんな知ってたよ。息子を後継者にしたいけど、参議院の世耕弘成が衆議院へ鞍替え狙ってるんで、様子を見てたことを。ところが世耕は裏金問題で自民党を離党。

 

で、今がチャンスとばかりに事実上の引退声明。『不出馬』を理由に処分なしのおまけつきだ。さすが老獪な爺さん。

 

で、晴れて三男の伸康を後継候補にと、ここまでは思惑通りだったんだろうが・・・。離党させられた世耕が、まだ鞍替えを諦めていない、なんて噂も。すんなり『指定席』を息子に譲れるかどうか。情勢は不透明だ。(葉月亭遊人筆)

 

■■<プロ野球『新潟~東京』に移動日休日>25日、新潟で行われた『巨人-DeNA』は遠距離球場なのだろうか。26日は、移動日らしく試合がない。かつて、新幹線のない時代には当然時間もかかるので『移動日休日』はあって当然だ。が、今新潟~東京は新幹線で2時間。広島~東京は新幹線で4時間。東京・横浜で試合をして右翌日移動し、試合をすることは日常的だ。

 

新幹線が開通し、移動時間が大幅に短縮されているのに『移動日』が設定される怪。松山にもいえる。ヤクルト-広島の翌日は移動日休日だった。松山~広島は快速艇で1時間。なにも移動日扱いは不要である。さらには、金沢や富山など北陸都市での試合にも言える。

 

プロ野球界って、伝統を重んじるあまり、新幹線などで移動時間が大幅に短縮された現実を折り込んでいない。ガリガリのふるーい歴史を引きずるプロ野球なり、だなあ。困ったもんだ。

 

■■<【カープ】新井監督「まだまだ力ありますね」森下の91球マダックス完封、稲生以来56年ぶり>

◆JERAセ・リーグ カープ3―0ヤクルト(25日・マツダスタジアム)

 

カープは、森下暢仁投手の『マダックス』(100球以下の完封)で快勝し、2位まで3ゲーム差に広げた。森下は、91球で2安打無四球無失点で9回を投げ切り、昨年7月12日の敵地・巨人戦以来、本拠では22年8月16日の中日戦以来の完封で6勝目。打線は6回2死一、二塁からヤクルトの遊撃・長岡のまさかの落球で先制点をもらい、なおも2死二、三塁から会沢が2点適時打でたたみかけた。7日のロッテ戦(マツダ)では大瀬良の無安打無得点を好リードした会沢。この日は攻守で森下を支えた。以下は新井貴浩監督の試合後の主な一問一答。

 

――雨が舞うコンディション下で森下投手が好投した

『火曜日という週アタマで本当に素晴らしいピッチングだったと思います。彼に期待するものというのはたくさんありますし、今日は100%以上、応えてくれました。初回、立ち上がりから真っ直ぐがはしっていましたので、全ての球種がコントロールできていたと思います』

 

――6回は敵失での先制直後に会沢選手がたたみかけた

『あの2点タイムリーは大きかったですね。追い込まれて、インサイド高めの真っ直ぐだったんですけど、根性で持っていきましたね。まだまだ力ありますね』

 

――相手バッテリーは2安打していた9番・森下ではなく会沢勝負だった

『今日森下は猛打賞ですか、投げて良し打って良し。そういうのもあってアツ(会沢)も、より気合が入ったんではないでしょうか』

 

――二塁打1本を含む3連打して無得点だった4回の攻撃について。小園選手は誘い出される形で盗塁死

『あそこも、こちらからは「際を攻めて行け」と言っているので、全然何ともない。本当、少しのところだと思う。あれが、もう少し遅かったらいけてると思うし。またというか次、思い切っていってほしいです』

 

――その後に菊池選手の二塁打の際に一走・堂林選手が赤松コーチの指示もあって三塁ストップ

『コーチャーも100%の判断というのはできないから。アカ(三塁担当の赤松外野守備走塁コーチ)はいつもいい準備をしてくれている。またいい準備をして次の試合に臨んでほしいと思います』

 

――6回は4番・小園選手が犠打で好機を広げた

『あそこは1点ほしいところ。出たら送ってもらうと決めていたので。しっかり、こっちが出しているサインに応えてくれていると思います』

 

――22日の中日戦で左太もも裏を痛めた末包選手がベンチ入りしたが、欠場

『本人は「行きたい」ということだったんだけど、こちら側が止めました。まだ先は長いので』

 

――矢野選手が久々ベンチスタート

『相手のピッチャーのタイプにもよるし、そこはこっちで判断して今日は後からの出場という風にしました』

 

◆ふーん、100球以内の完封勝利を『マダックス』っていうんだねえ。『猛打賞+100球未満の完封』は68年9月1日稲尾(西鉄)が近鉄戦で本塁打含む3安打を放って99球で完封して以来、56年ぶり。また、投手がシーズン2度の猛打賞は02年ムーア(阪神)が4月6日ヤクルト戦と8月14日横浜戦で記録して以来となり、日本人投手では85年川口(広島)が7月5日阪神戦と9月29日中日戦で記録して以来、39年ぶり。まさに森下記録ずくめのマダックスだねえ。

 

しっかし何だねえ、新井カープがここまでやるとは予想できなかったねえ。すごいことではあるなああ。