今日の画像は、スイスアルプストレッキンのスナップ『ミューレン村のスナップ』、北大路欣也主演の『藤沢周平原作・三屋清左衛門残日録』、徳島県の岩島・大辰巳島の『前人未踏の辺境クライミングルートを登る麻莉亜』。そして、『高知牧野植物園の花たち』です。まっこと、世界の牧野富太郎博士にふさわしい、見事な植物園でした。特に、自ら命名された『ヨコグラノキ』や、妻の名をかざした『スエコザサ』に会えて、とても良かったです。

 

 

 

 

 

 

             <ヨコグラノキ>

 

               <スエコザサ>

            <ヤハズマンネングサ>

            <マウブディライト>

            <ベニバナダイコンソウ>

 

              <コツラバルバタ>

 

            <スプリングパーク>

 

          <ヘリオフィラ・コロノピフォリア>

 

 

 

 

 

■■『そういえば、お顔のいろがいささか青白くなられたようですな』

『夏風邪と言ってもバカにならん。10日ほどは寝たきりでな。ようやく起き上がれるようになったので、今日は足馴しにここまで来たところだ』

 

『それは、それは』

と平松は同情するように言った。そういう平松は、風邪とは縁もゆかりもなさそうな、浅黒く引き締まった顔をしている。

 

『そうしますと、その晩の会合に向う側の人間が紛れこんでいて、ひと騒ぎあったこともお聞きになっていませんか』

『聞いておらんな。当日は又四郎も宿直で城泊りだったからの』

と清左衛門は言った。平松が向う側と言っているのは、むろん遠藤派と対立する朝田派のことである。

 

『紛れこんだのは諜者か。それともただのうろたえ者か』

『当方の動きをさぐりに来た者と、間島さま、桑田さまあたりはみておられるご様子でしたが、証拠がござりませんので、そのまま帰してやったようです』

 

『さようか。血なまぐさいことがなかったのはよい』

『はい。組頭の吉岡さまなどはかなりご不満らしくて、強硬なことを申されておりましたが、大方の意見は先方とむつけき争いには時期が早かろうということで・・・』

 

『その紛れこんできた男というのは誰だ』

『郡奉行配下で、金井祐之進という男です』

『金井?』

清左衛門は衝撃をうけていた。

 

『百人町の金井かな』

『そうです。御存じの人間ですか』

『いや』

 

■■<『石』に魅せられて⑥ 『ウインドウズ95の出現』>この10年でインテルは再び首位に返り咲き、サムスン電子といった韓国や台湾の新興企業も台頭し始めていた。日本市場では、海外製のシェアが30%近くまで増えた。通商産業省は海外製を日本に売り込むため、『外国製半導体商社協会』の立ち上げまで促していた。

 

牧本は『価格が他国に決められてしまう商売なんてあり得ない』と憤った。『日本政府はあまりに弱腰。日本は本当に独立国なのか』。96年の交渉では、互いに声を荒らげ、進展しない不満から席を立つ場面もあった。最終的に韓国や欧州も加えた世界的な新しい枠組みをつくり、協議を続けることで決着。日本の主張はほぼ受け入れられた。

 

しかし、日本が協定に苦しむ10年間、世界ではもっと大きな変化が起きていた。『ウインドウズ95』に象徴されるように、電化製品の主役がパソコンになり、技術革新が数年単位で起こった。日本が得意とする高品質な製品ではなく、安くて新しい製品が支持されるようになった。

 

企業は各自国内から世界全体に市場を求め、半導体産業も大きく成長。設計や製造などの各分野に特化する企業が登場し始める。次第に、今につながる『分業制』が主流ちなっていった。今や半導体の受託製造で6割近くのシェアを持つ台湾積体電路製造TSMCも、こうした流れの中で生まれた。

 

日本の半導体は、総合電機メーカーの1部門で、自社の家電に使う部品の一つという位置づけ。家電とともに世界をとった日本メーカーは、分業制に移行することができなかった。

 

牧本はこう分析する。『米国に勝ったものづくりに自信があったばかりに、日本は変われなかった』

 

■■<『高橋真梨子』のこと>私は高橋真梨子が好きで、大のファンである。あの『五番街のマリー』は私のl愛唱歌の一つです。あの自ら作詞したヒット曲『遥かなる人』は、メルハンメルオリンピックのNHK主題歌となり、多くの若人の心をつかんだ。さらに高橋を飛躍の舞台に乗せた『桃色吐息』も異色である。

 

ふと、ステージの上での高橋が小さく見える時があった。はて?と。早速、ネットで調べたら、なんと身長は171cmだと。女性にしたら大柄なタイプなんだねえ。と、他の情報では155cmとある。どうやら155cmが正しいようだね。

 

加山雄三の『君といつまでも』を歌った高橋を見た。なんともぶっきらぼうな歌い方であるが、それがまた加山の雰囲気とは異なって、新しい魅力を発揮する。

 

1949年の生まれだから、当年74歳になった。後期高齢者である。全国ラストコンサートを終えたとの情報がある。

 

高橋真梨子は福岡の出身とされるが、幼少期広島に住んでいたこともある。

 

両親が、夜の街で働いていたという。父親はトランぺッターでバンド演奏をした。母親はキャバレーのバーでママを務めそうである。場所はあの『福岡の中州』。のキャバレーは『白い森』と言った。

 

私は3年ほど福岡に転勤して、住んだことがある。そしてお付き合いで、何とこの白い森へ入ることが何度かあった。そして、これが高橋真梨子を生んだ両親が務めた場所かと、感じ入ったものである。

 

今、白い森は再開発されて、スナックビルになっているが、福岡にいくと、この白い森を思い出し、ついつい『五番街のマリー』を口ずさむのである。

 

◆ネットで『白い森』を検索したら、西日本新聞の記事が出てきた。白い森はキャバレーでなく『クラブ』だったんだねえ。その違いは一体なんだろうかな。以下。

 

◆キャバレー編<137>歌謡祭 歌で恩返しをしたい

福岡市城南区のスナック『憩』のマスター、野上幸男(70)は「歌に出合えてよかった。名前のように、幸福な男ですよ」と若々しい声で語った。カラオケからご当地ソングである演歌「濡れて那珂川」が流れた。野上はマイクを取った。

〈飲めぬ飲めぬお酒で 酔っている女が 落とす涙はいじらしい…〉

 

うまい。うまいはずである。この曲は2006年に野上自身がリリースしたものだ。キングレコードに所属するプロの歌手でもある。演歌の情感の表現の中には野上が同市・中洲のキャバレーで見た男と女の生態も盛り込まれているだろう。『この歌、カラオケで歌いました、とお客さんから言われるとうれしいですね』

 

現在の福岡県うきは市で生まれ、高校卒業後、福岡市の練炭会社に就職したが、労働争議のごたごたなどで半年で会社を辞めた。その時、中洲のキャバレー『星座』が専属歌手を募集していた。キャバレーはバンドの他に専属歌手も抱えていた。野上は少年のころから姉の影響もあって演歌が大好きだった。三橋美智也のファンだった。

 

『歌手になりたいと思っていた。このキャバレーから歌の生活がスタートしました』。男女の機微、人生の辛苦もわからない19歳ではあったが、客からリクエストがあればその曲を自分なりにこなした。

 

『でも、失敗談もあります。春日八郎の「赤いランプの終列車」では違ったメロディーで歌い、客から笑いが起こりました』

20代は『星座』や『赤坂』『チャイナタウン』などで演歌歌手として歌い続けた。同時期、『夫婦船』などのヒットで知られる三笠優子もクラブ『白い森』にいた。『チャイナタウン』『白い森』は同じビル、同じ経営者で、楽屋は一つだった。ここで、野上は三笠のステージ衣装である着物の着付けをいつも手伝った。その交流は今でも続いていて、毎年、三笠は野上のスナックに姿を見せる。

 

野上は1970年ごろにキャバレーを離れ、10年後にはスナックを開いた。同時に店や文化センターなどで歌謡教室で歌を教えるようにもなった。教え子たちを中心に毎年、『野上歌謡祭』を開いている。出演者は100人を超え、500席も埋まる人気だ。今年で26回目になり、収益の一部は福祉団体に寄付している。

 

『なにもできない私が歌で生きてきました。その恩を歌で返したいと思っています』歌に定年はない。まだまだ、マイクを置くことはない。