今日の画像は、スイスアルプストレッキンのスナップ『ラウターブルネンの谷の上にある、標高1600mのミューレン村』、北大路欣也主演の『藤沢周平原作・三屋清左衛門残日録』、奥穂のジャンダルムより厳しく、新潟魚沼の難ルート『麻莉亜の八海山トレッキング』。そして、市内吉島公園『サクラ徒然』です。

 

八海山は、川底や浅い海底の小石が退席して岩になった『礫岩レキガン』でできている。北アルプスの岩場とはまた趣が違う。

 























































■■長い間そうしてから、松江は梅の枝を膝にもどし、それからうなだれて泣きはじめた。最初の忍び泣きに、途中からはかぼそい声が加わった。それは身も世もないような泣き声で、その声を聞きながら清左衛門ははじめて、自分が村川助之丞を強く憎んでいることに気づいた。それはほとんど父親のような感情だったのである。

『さあ、その枝をこちらにもらおうか。花が台なしになる』
清左衛門が言うと、松江は泣き止んで梅の花を清左衛門に返した。松江が示したはじめての人間らしい反応だった。

その夜、藩屋敷に戻った清左衛門は自分の長屋に村川助之丞を呼びつけると、はげしい叱責を加えた。そこで松江が屋敷にもどる前に、帰国願いを出して国元にもどることを誓わせた。そうしたいと事を公にするぞと脅したのである。

客座敷に入ってそこに坐っている松江を見た時、清左衛門は一瞬人違いをしたかと思いかけたほどであった。それほどに松江は昔の面影を失い、ふっくらと太っていた。

清左衛門は思わず笑いがこみ上げてくるのを感じた。あの権高な屋敷奥の実力者、滝野を思い出したのである。色の黒い、白いを別にすれば、2人の体型はそっくりと言っていいほどに似ていた。

しかしこの場合の清左衛門の表情は、遠来の、しかも古い顔見知りの客を迎えるには不似合いなものだったらしく、久々の挨拶をかわすとすぐに松江が言った。
『昔にくらべてすっかり太ってしまいましたので、びっくりなさったのですね』
『いやいや』

『お隠しにならなくともようございますよ』
膝をすすめるようにして言ってから、松江は自分の言葉に自分で笑いを誘われたらしく、袂をすくい上げて顔を隠した。今度は清左衛門も遠慮なく笑った。それで2人の間にあった年月の隔てが掻き消えるようだった。


■■<米を目指す移民 死のジャングル⑤ 『移民が連日2千人通過、特需に沸く集落』>若い人も老いた人も、不安そうな表情で先住民の男性に次々と現金15ドル(2,200円)を渡していく。男性は200ドル超をポケットに入れ、客にライフジャケットを手渡しながら、スペイン語で告げた。『急いでボートに乗って。すぐに出発する』。

中米パナマ東部、コロンビアとの国境近くにあるバホチキートは、先住民のエンベラ族が500人ほど住む集落だ。携帯電話の電波は届かず、上下水道もほとんど整備されていない。

ここに、5キロほど離れた『死のジャングル』、ダリエン地峡を通過した移民達が連日2千人近くやってくる。昨年9月に現地を訪ねると、地峡を通過する人の数が過去最多となる中、バホチキートでは『特需』が起きていた。

◆『月収が5倍に』 『周りの友人が急に稼ぐようになって、慌てて自分もボート運行を始めた』。住人の男性(47)はそう話した。バホチキートに到着した移民は通常3時間ほどかけてラハスブランカスという別の集落に行く。運行の担い手は、バホチキートや近隣の集落に住む先住民だ。

男性は元々アボカドなどを栽培する農家で、月収は200ドル(3万円)ほどだった。周囲の人が移民を相手に稼ぎを増やしているのを見て、昨年1月からボート運行を手伝うようになり、月収は5倍に。昨夏は農作業を一切しなかった。



『言い方は悪いが、移民はとどまることなくやってくる。もっと稼げる』。ボートの乗り場のすぐ近くでは、移民に朝食を提供する屋台が出ていた。目玉焼きや豆を使った料理は4ドル(600円)だ。女性(45)は昨年8月まで、土産物のかごを編む仕事をしていた。月収は250ドル(3万7千円)ほどだったが、今は1日に100ドル稼ぐ。『元の仕事には戻れない』。

集落には、30分につき1ドル(150円)で衛星を使ったWi‐Fiを提供する店もある。携帯電話の電波が届かないため、移民がインターネットを使いたい場合はWi‐Fiが必要だ。店員の男性によると、店のオーナーが昨夏、3千ドル(45万円)でWi‐Fi機材を購入したという。『利用者は後を絶たない。機材購入の先行投資が見事に成功した。確実に元は取った』。


■■<朝晴れエッセー『大きくなったら・・・、何になる?』>春の日差しに誘われて小学1年生の孫娘と公園に出かけた帰り道、孫は『大きくなったっらお花屋さんにねるねん』と教えてくれた。

確か1カ月ほど前には歯医者さんのお姉さんがいいと言っていた。自分が通う歯医者さんで優しくしてもらったのがうれしかったようだ。その前はお菓子屋さん。将来のことが気になるなんて、ずいぶん成長したものだと思うが、しかし、くるくるとよく変わる。

これも毎日いろんな経験をしているおかげなのだなとぼんやり考えていると、『ばあばは大きくなったら何になるの?』と聞いてきた。

小さい時、裕福でなく、またそんな時代なのもあって私は『食いっぱぐれのない人生』を目指していた。幸い高校卒業後勤続42年間、無事定年退職した。最近私が友達とかわす話題といえば断捨離や終活についてばかりだ。

しかし、今後寿命が何年あるのかわからないが、今後何になりたいかを考えるのも悪くないかも知れない。孫娘がお花屋さんになるならお手伝いできるようにフラワーアレンジメントの勉強をするのはどうだろう。

そんなことを考えながら通信教育の広告をながめていたら、花屋でエプロンをした孫娘に励まされている映像が思い浮かんだ。(堺市 女性68)



◆『人生100年時代』、まだまだ30年もるではないか。好奇心とチャレンジ精神が老化を防ぎ、活力ある人生に繋がる。まだまだ68歳。捨てたもんでは、ありんせんぞえ。