今日の画像は、スイスアルプストレッキンのスナップ『ラウターブルネンの谷のトレイル』、北大路欣也主演の『藤沢周平原作・三屋清左衛門残日録』、奥穂のジャンダルムより厳しく、新潟魚沼の難ルート『麻莉亜の八海山トレッキング』、そして、寒の返りで桜の開花が遅れている『千田公園で花見する子供連れ』です。例年なら、もう桜は5~6分咲きなのに、まだつぼみ状態とか、3分咲きの桜でお花見です。

そして、広島で一番のお好み焼き店『いっちゃん』です。市居馨さんが経営する『いっちゃん』は、ミシュランガイドにも登録され、あのNHKのプロフェッショナルにも登場したお好み焼きの大名門。数年前には、食糧不足のヨルダンを訪問して、お好み焼きの手ほどきをして、食糧難対策を施したほどの世界的なお好み焼きの達人です。本店は、駅裏の光町にありますが、いつも客席は満員状態の繁盛店ではあります。

 











































■■『30頃のおきれいな方でした。お心あたりがございますか』
『思わせぶりはいかんぞ。はっきり言え』
清左衛門はたしなめたが、べつに里江の言い方を不快に思ったわけではない。隠居の清左衛門を女性が訪ねて来ること自体が三屋家の珍事である。そんなふうに言いたがる里江の気持ちもわからぬことではなかった。

里江は笑ってあやまり、あっさりと女性の名前を言った。
『松江さまとおっしゃる方を、おぼえておられますか』
『はて、松江・・・』
『江戸のお屋敷で、むかしおとうさまのお世話になったことがあるとか・・・。今度ご用があって国元にもどられたので、ご挨拶にうかがったと申しておられました』

『おう、あの松江どのか』
清左衛門がその時思い浮かべたのは、まだ少女の面影を残している若い娘の顔だった。
『わかった。たしかに江戸屋敷に勤めていた女子だ。これはめずらしい。それで?』

『おとうさまがおられる時に、もう一度来ると申して帰られました。おみやげをいただきました』
嫁が部屋を出て行くと、清左衛門はゆっくりとお茶をすすった。あのことがあってから、15年はたつだろうと思っていた。

三屋清左衛門が江戸屋敷の奥のひと間に呼ばれたのは、抜擢されて用人になってから間もない頃だった。清左衛門を呼びつけたのは、滝野という老女である。

『何人にも一切秘密のご用ゆえ、そなたに来てもらいました』
滝野は不機嫌そうな顔をしてそう言い、これから言うことは他言無用だが、秘密を守れるかと念を押した。


■■<ダイソー③ 『状況を受け入れる』経営>本来ならば、このような中内の暴挙ともいえる采配に対して、なんとかして食い下がることもできたはずである。しかし、矢野の自伝では、ダイエーから出店拒否をされてしまったときの状況が、非常に淡白に記述されている。矢野は状況をすんなりと受け入れ、そこからどうにかして状況を打破する方法を見つけたように見受けられる。ここにも、矢野の経営態度が表れているのではないか。

◆ダイエー・中内㓛の『仕方のない状況は変える』経営 この『状況を受け入れる』態度は、先のダイエー・中内と比較するとおもしろいぐらいに対極的だ。

中内もダイエーを大きくするまでは、取引先からの冷遇を受けていた。例えば、松下電器との取引でのこと。ダイエーは松下電器の製品を、提示した許容範囲を大きく下回る金額で販売した。そのため、松下電器はダイエーへの商品出荷を停止。これに対しダイエーは松下電器を相手取り、訴訟を起こす。いわゆる『ダイエー・松下戦争』の勃発であった。

常に中内は、取引先に対して、好戦的な態度を取り続けた。他のスーパーマーケットとの出店競争に、それぞれ『戦争』という名称が付いていることがそれをよく表している(赤羽戦争や津田沼戦争、藤沢戦争など)。当時、大手スーパーチェーンだったイトーヨーカドーや西友と苛烈な出店争いを繰り広げたのだ。

中内の人生を見ていくと、そこには『闘争』や『戦い』、さらには『革命』という文字が並ぶ。食うか食われるか。中内の発想の根底には、そんな思考が流れていた。矢野のスタンスが『仕方のない状況から始める』ことだとすれば、中内のスタンスは『仕方のない状況を変える』ことにあったのだ。



◆『仕方のない状況を受け入れる』経営で、日本の企業を見る 一方で矢野には仕事においては、これほどまでに熱意を持った人はいなかったと評されるが、そのような好戦的な側面は見られない。どちらかと言えば、戦いを避けながら、飄々とビジネスの海を漂っている。

ダイエーが出店にあたって、さまざまな地域で『戦争』を繰り広げていた、と書いたが、こうした出店戦略においても、ダイエーとダイソーは対照的だ。

ダイソーは、ショッピングモールやスーパーマーケットの一画に店舗を構えることも多く、他を潰して領土を確保するというよりも、共存しながらその領土をジリジリと拡大してきた。もちろん、ダイソーはそのようなことがしやすい業態だということもある。しかし、そもそも100円ショップという、ある種の『スキマ』業態を選んだこと自体にも、矢野の特徴が現れているのではないか。

デフレの影響や商品開発力の凄みなど、100円ショップが躍進を遂げた理由にはさまざまなものがあると思うが、その理由の一つにこうした、柔軟な出店戦略があっただろう。その意味でも、矢野の『状況を受け入れる』経営は、結果的とはいえ、その成長に与した側面がある。

実はこうした矢野の経営スタイルは、少数ながら他の経営者にも見られる特徴である。その代表例が、ドン・キホーテで有名なPPIHを創業した安田隆夫だ。

安田の自伝によれば、ドンキの大きな特徴ともいえるPOPの洪水や、商品をジャングルのようにぎっしりと棚に詰めこんだ圧縮陳列は、開業当初あまりにも商品が売れないことから考え出された『苦肉の策』」で、仕方なく始めたことが語られている。それが結果的には既存の小売に対する『逆張り』になり、今ではドンキは日本を代表する小売企業へと進化した。

この例からもわかるように、矢野の持つ『仕方のない状況を受け入れる』経営スタイルは、日本の小売業界のある側面を語るときに、非常に興味深い論点なのである。

◆スマホのUSB-Cコードの予備が欲しくなって、アマゾンで探した。この手の低価格品は中国の業者が出品しているケースが多く、商品の到着までの期間が1~2週間と長い。すぐ欲しい場合には、国産の500円レベルの商品になる。ふと、そうだ、ダイソーがある、と。近くの商店街にあるダイソーをのぞくと、あるある。USB‐Cコードが5、6種類も。いずれも100均。希望にあう商品を、110円で買って帰り、即使用した。本当に、ダイソーは生活に密着している便利なチェーンではある。が、これから商品コストが上昇するトレンドをどう乗り切るか、が大きな課題であろうなあ。

◆1年くらい前だったか、矢野社長がテレビに出ていた。彼は東広島の出身である。東京の高層億ションのテラスから東京湾を眺めながら、『去年は、マツダより納税額が上回った』と自慢していた。マツダは広島の代表的大企業である。それを追い抜いたという自負心が言葉と態度に満ち溢れていた。が、折角事業に大成功しても、80歳で亡くなるとは、まったく間尺に合わない人生とも言えるなあ。せめて100歳まで生きなくては、なあ。ご冥福をお祈りします。――


■■<私の愛唱歌『希望』>  岸洋子歌  藤田敏雄作詞 いずみたく作曲

 


希望という名の あなたをたずねて 
遠い国へと また汽車に乗る 
あなたは昔の わたしの思い出 
ふるさとの夢 はじめての恋 
けれどわたしが 大人になった日に 
黙ってどこかへ 立ち去ったあなた 
いつかあなたに また逢うまでは わたしの旅は 
終わりのない旅  

希望という名の あなたをたずねて 
日もあてなく また汽車に乗る
あれからわたしは ただ一人きり 
明日(あした)はどんな 町に着くやら 
あなたのうわさも 時折聞くけど
見知らぬ誰かに すれ違うだけ 
いつもあなたの 名を呼びながら 
わたしの旅は 返事のない旅

希望という名の あなたをたずねて 
寒い夜更けに また汽車に乗る 
悲しみだけが わたしのみちづれ
となりの席に あなたがいれば 
涙ぐむとき そのとき聞こえる
希望という名の あなたのあの歌
そうよあなたに また逢うために 
わたしの旅は いままたはじまる 

 

◆この歌を歌いながら、牛田山を縦走すると、まっこと気持ちが晴れ晴れとして心地よい。