今日の画像は、スイスアルプストレッキンのスナップ『ラウターブルネンのスナップ』、北大路欣也主演の『藤沢周平原作・三屋清左衛門残日録』、奥穂のジャンダルムより厳しく、新潟魚沼の難ルート『麻莉亜の八海山トレッキング』。そして、原爆ドーム側のおりづるタワー1階に出店した『大お好み焼き店』です。広島でも有名なお好み焼き屋さんで、この日、土曜日だったせいか、満員盛況の大繁盛ぶりでした。

 












 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■■安西は若くはない。齢はおよそ40前後と思われ、物静かな男だった。しかし寡黙で礼儀正しいその男は、藩内で誰知らぬ者もいない外記流の鉄砲の名手で、また清左衛門のにらんだところでは学問もくらくない様子である。言葉のはしばしにそれが現れる。

――なぜ、離縁を・・・。
人の家の事情に立ち入る気持ちはないが、清左衛門はふとそう怪しまずにいられない。安西の妻は何の不服があって家を去ったのか、あるいは妻の方にともに暮らせないようなどの不始末があって、安西が去り状を書いたのか。

ふと甘い花の香が顔をかすめたのを感じて眼を上げると、梅だった。そこは足軽屋敷のはずれで、生垣の内側から清左衛門の頭上近くまで梅の木の枝がのびている。その枝にふくらんだ蕾とぽつりぽつりとひらきはじめている白梅が見えた。

歩いているうちに日が暮れてしまったらしく、低い空にははやくも薄墨いろの暮色がただよいはじめ、見上げる梅の花も真白ではなかった。暮色に紛れて、白梅はややいろが濁って見える。だが匂いは強かった。

今年はじめて見る梅の花を、立ちどまって眺めていると、前髪をつけた少年が2人、清左衛門に挨拶をして通りすぎた。2人とも風呂敷包みを抱えているのは、多分塾か藩校の帰りなのだろう。や、と答えて、清左衛門は少年たちを見送り、ようやく歩き出した。

家にもどると、隠居部屋にお茶をはこんで来た嫁が、留守の間に客があったと言った。
『わしにか』
『はい、それも女の方ですよ』
嫁の里江は気を持たせるような言い方をした。


■■<ダイソー② 矢野博丈が生み出した『独自の経営術』>貧しさの中から立ち上げたビジネス。紹介したエピソードのように、100円ショップはなかば偶然に誕生した。しかし同時に、矢野は『すべてを100円で売る』ことが、他店との大きな差別化につながると予感していた。事実、その予想通り『100円』という制約が、逆に魅力的な商品や、その流通を可能にする仕組みを生み出した。

当時のダイソーは、現在のように常設の店舗を持っていたわけではなかった。矢野をはじめとした社員が、トラックに商品を積んで各地の催事場に出かけていき、そこで臨時の店舗を開く形で営業をしていた。今風にいえば、『ポップアップストア』である。

これには、矢野がダイソーを創業する時点で、多くの資金を持っていなかったことが関係している。矢野の家庭は貧しく、大学には進学できたものの典型的な苦学生だった。大学卒業後も、百科事典のセールスマンやはまちの養殖業、ちり紙交換業などさまざまな職種を転々とした。自身の人生を振り返るときに出てくる、『転職9回、夜逃げ1回、火事1回』とお決まりのフレーズまであるくらいだ。

そんな中で始める事業だったから、初期投資は少ないほうがいい。だからこそ、この形態になったのだ。というより、この形態でしか経営ができなかった、といってもよいかもしれない。100円ショップという形態だけでなく、こうした経営スタイルまでが、矢野の境遇から『仕方なく』生み出されたものだったのだ。



◆『仕方のない状況を受け入れる』矢野の経営スタイル 矢野の境遇は、その経営スタイルにある一貫性を持たせている。それは『仕方のない状況を受け入れる』という思考法だ。100円ショップが始まった状況を思い出してみてほしい。客が押し寄せ、どうしようもない。そんな中、苦肉の策として生み出されたのが『すべてを100円で売る』という発想だった。どうしようもない状況を『受け入れ』たときに、そこにイノベーションが生まれた。

他の例を出そう。移動販売から本格的に店舗運営をはじめるようになったときにも、この思考法が現れる。当時ダイソーは、商品流通の6割を『ダイエー』に頼っていた。ダイエーは、日本におけるスーパーマーケットの草分けになった存在で、創業者・中内㓛を中心に全国に店舗展開を広げていた。

そんなダイエーの催事場に、ダイソーは100円ショップを展開していた。しかし、1987年のある日、中内は矢野を呼び出し、こう言ったという。『催事場が汚くなる。これからの新時代にはふさわしくないから、ダイエーグループは100円均一の催事は中止する』

売上の大部分をダイエーに頼っていた矢野にとって、この通知は衝撃的なものだったに違いない。伝記はこのように続く。

六割もの商品ストップは大打撃だ。矢野はどうしたら会社が潰れなくて済むかと考えた。『そうだ!ダイエーの客が流れるところに店を出せばいい!』ダイエーの中がダメならば、その外で店舗を出店すればいい。まさかの発想だった。こうして初期のダイソーは、ダイエーの近くに店舗を出店することで、常設店舗としての100円ショップがはじまる。


■■<『買うより借りる画、あなたなら何を?>デフレが長く続いた日本で急速に成長したのが『買わない』シェア(共有):経済である。業界団体によれば、市場規模ハ2020年に2兆円を突破。20年には14兆円を見込む。

家具や家電はもとろん、洋服、バッグ、自転車から車までその対象は拡大の一途。不用品を個人間で売買するフリマアプリ、自宅を不在にする間だけ旅人に貸す明泊、自分のスキルをすきま時間に提供するのもシェア経済。この春からは、マイカーを使った輸送業務ライドシェアも条件付きで解禁される。

背景にあるのがネットの進歩である。かつては近所のスーパーの掲示板に、こうした情報が張り出されていたものだ。ネット社会はその規模をぐっと広げ、遠くの人と繋げるようにした。



『買う』『所有する』こと自体に価値を見出さない人が増えていることも見逃せない。もちろんシェア経済もビジネスだからカネと無縁ではないし、悪い輩も出てくる。それでも、大量生産・大量消費をあおった果てに大量のゴミの山が残るような、行き過ぎた資本主義は、早く治す必要がある。

私の場合、モノにつkてはそれほど欲しいものはない。シェアしたいとすれば、家飲みの時の『もう一品』。私は2品しか作れなくても、近くに住んでいて好みの合う誰かが2品作っていれば、互いに『おすそ分け』し合うことで4品を楽しめる。

料理を通して友情が芽生え、独り暮らしの安全網としても役立つはず。こんな『ご近所さん結び』ビジネスがあれば利用してみたい。(元村有希子筆)

◆シェア経済はどんどん進化するねえ。本当に元村さんが言う通りだ。


■■<マラソン『つぎこそメダル』>家ぞくで地いきのマラソン大会に出ました。大会は雨や新がたコロナウイルスのため中止がつづき、5年ぶりでした。

大会には、100人ぐらいがさんかしました。わたしは友だちや妹と、1,000メートル小学生のぶに出ました。スタートすると半分も走らないうちにつかれて『ゴールが遠いな』と思いました。と中で地いきの人といっしょに見にきてくれた、おばあちゃんとおじいちゃんが『がんばれ』とおうえんしてくれたので元気が出ました。

走りおわるとタオルや花をもらいました。地いきの人が作ってくれたぜんざいは、とてもおいしかったです。

前回出た3さいの時とくらべると、タイムはかなりはやくなりました。ただ、目ひょうは7位までになることでしたが、12位だったのでメダルももらえずにくやしかったです。

走りおわってみると、もうちょっとはやく走れた気がしました。来年も出て、つぎこそメダルをとりたいです。(中国新聞投書 三次・男8歳)



◆8歳、小学2年生か。ややたどたどしい文章がそれらしく、新鮮に見えるなあ。しっかり頑張ってほしい。