今日の画像は、スイスアルプストレッキンのスナップ『ラウターブルネンのCOOP』、北大路欣也主演の『藤沢周平原作・三屋清左衛門残日録』、奥穂のジャンダルムより厳しく、新潟魚沼の難ルート『麻莉亜の八海山トレッキング』。そして、春よ来いと『スイセン、アラカルトⅡ』です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■■清左衛門は、くわしい事情は知らないが、安西が妻を離縁したことを耳にしていた。5年ほど前だと聞いたようでもある。話はまだ尽きないが、男やもめの安西に気を遣わせるわけにはいかない。

 

『日が落ちる前にもどらぬと、また嫁が心配する』

これでと言って、清左衛門は会釈をかわすと背をむけた。安西の家がある天王町は小禄の藩士が住む町である。安西もたしか勘定方に勤めていて家禄は40石たらずのはずで、道の両脇にはつつましい見かけの家々が続き、なお歩いて行くと右手に町の名前になっている四天王を祀る御堂がある。そしてその先は、両側ともに足軽屋敷だった。

 

そういう町柄のせいか、天王町には他の武家町にはない人のにぎわいのようなものがあって、たとえば町角に子供が群れて遊んでいたり、垣の内ながら足軽の女房たちが人眼もはばからず声高に立ち話をしているのを見かけたりする。

 

しかし今はまだ2月のはじめで、日が傾くと寒気はたちまち町を覆いつつんでしまう。おそらくはそのせいで、町は無人のように静かだった。道の両側には積み上げた雪が残り、黒く汚れた雪の上に、ところどころ衰えた日射しが射しかけているのが見えた。しかし1日じゅう日が照り渡ったんおで、道は乾いている。

 

――気持ちのいい男だ。

と清左衛門は思っていた。むろん別れて来た安西佐太夫のことである。

 

安西とは例の遠藤派の読書会で知り合った。今日もその帰りだった。読書会は夜ひらくとはかぎらず、今日のように非番の者をあつめて日中に会合を持つこともある。相変わらず論語を読む体裁は保っているものの、対抗する朝田派が、近頃は播磨屋を使うだけでなく、直接家老屋敷に人をあつめることもあるとかで、遠藤派の会合も、その情勢につられて近頃は半ば公然のものとなっていた。

 

安西とはたまたま会合からもどる道が同じ方向で、これまでも2、3度連れ立って帰っているのだが、清左衛門は会うたびに安西の人柄のよさを発見するような気がしている。

 

■■<東急『観光列車を北海道で走らす』>『日本で初めての案件は取りに行こう』。社内でこう指示を出した。国が管理する空港運営事業を民間企業にまかせるというコンセッション方式。その第1弾が仙台空港だった。東急グループと前田建設工業、豊田通商がコンソーシアムを組み、2015年、複数の企業グループに競り勝った。東急グループ合計で出資比率は過半となっている。航空路線の誘致から商業施設運営まで引き受ける事業は幅広い。

 

空の事業と東急の縁はこれが初めてではない。かつて東急は五島昇の掲げた環太平洋構想のもと日本エアシステムを運営していた。この事業はなによりもネットワークが大事であり、静岡空港、北海道の7空港、そして広島空港にも参画したのもそのためだ。

 

空港は鉄道と同じで、周辺の施設や他の交通を繋ぐことができるハブである。観光立国を目指す日本において、将来その需要の伸びが大いに期待でき、地方創生の起点となる可能性を感じていた。

 

五島慶太が愛した伊豆半島と東急には長い歴史がある。伊豆急行を開業したのは1961年。首都圏から近く風光明媚で温泉があり観光ブームを引き起こした。そして観光列車を走らせた。出発時から楽しく豊かな時間を過ごしてほしい。そんな思いで『ザ・ロイヤルエクスプレス』を2017年から運行し始めた。列車の装飾も話題になったが伊豆の魅力を再発掘するきっかけとなった。

 

そんな中、国交省の方から北海道の鉄道の活性化について相談があった。『観光列車でも走らせてみたらいかがでしょう』。軽い気持ちで話をした。しばらくしてその方から電話がかかってきた。『野本さん、御社の観光列車を北海道に持ってこられませんか』。

 

ただ、北海道で観光列車を走らせる場合、電化されていない区間をどう走行するか、どのように北海道まで車両を輸送するかなどハードルがあったが、多くの協力を得て実現にこぎつけた。

 

20年から毎年夏に運行し、抽選となるほどの人気。地域にある観光資源を新たな仕組みでつなぐ役目なのだ。そして今年1月から四国・瀬戸内エリアでも走ることになった。いずれもJR各社と協力して運行する。会社を超えて連携することで価値を生む商品・サービスを実現できる。

 

沖縄県宮古島も東急の貴重な拠点の一つ。景観のい与那覇前浜に接するエリアで、かねてホテルやゴルフ場を展開してきた。隣接土地の一部を別荘分譲する予定であったが、2013年、多くの人が集まる場所にしようと観光農園『まいぱり』を開業した。今ではマンゴーやパイナップルといった南国の果物を作って出荷している。

 

伊豆は『オリーブペニンシュラ』、宮古島は『フルーツアイランド』。お客様が喜んでくれるものに思いを巡らせるのはいくつになっても楽しい。(野本弘文東急会長筆)

 

◆今、渋谷の大再開発が進行中だ。東急の本拠地である。一度東京に出たら、見に行きたいものではある。

 

■■<ダイソー① 『これ、なんぼ?』『100円でええ』100均ダイソー創業者・矢野博丈が残した、“仕方のない状況を受け入れる”経営美学>2024年2月12日、“100均”の愛称で知られる『ダイソー』を経営する大創産業の創業者・矢野博丈が、心不全のため80歳で亡くなった。今でこそ小売業の一大ジャンルを築いた『均一ショップ』であるが、その誕生背景には、行き当たりばったりな矢野の『経営美学』があった。その思考の源泉を振り返る。

 

◆『仕方のない状況』が生み出した『100円ショップ』 1972年、とある街。そこにやってきた2トントラックには、大量の商品が積み込まれていた。トラックを運転していたのは、矢野商店の経営者・矢野博丈。商店といっても、小さな露天商で、トラックで各地を転々としながら細々と経営を続けていた。当時こうした商いは『サーキット商法』と呼ばれ、全国各地に同じような業者がいた。

 

矢野は商品を店頭に並べ始める。事前にチラシを配っていた効果なのか、客は列を成して待っていた。待ちきれなくなった客は、開店準備が終わるのを待たず、そこにあった段ボールを開け、目当ての商品を探し始めてしまう。

 

『これ、なんぼ?』 急いで、伝票を見る。 『ちょっと待って』

 

扱う商品の数は、何百にもなる。なかなか、見つからない。

客を待たせるわけにはいかない。思わず矢野の口をついて出た。

『100円でえ』

 

それを聞いたほかの客も、矢野に聞いてくる。

『これは、なんぼ?』 矢野はまた答えた。『それも、100円でええ』

 

これが『100円ショップ』、いわゆる『100均』が誕生した瞬間だった。客に急かされて、仕方のない状況から偶然スタートしたのが100円ショップだった。矢野の店はその後『ダイソー』の名称になる。

 

ダイソーの業績は右肩上がりで伸び、現在では年間売上高約5500億円、全世界店舗数6338店舗を抱える超巨大企業になった。後続するいくつかの100円ショップと競争を繰り広げつつ、今でも業界トップの座を占める。2022年には創業50周年を迎え、『2030年までに店舗数1万店・売上高1兆円』という壮大な目標を掲げている。

 

そんな、ダイソーを創業した矢野博丈が、2024年2月に亡くなった。

 

■■<『くじけず、ばん奏者に挑戦』>私は本年度、学校行事でのピアノのばん奏者オーディションに2度挑戦した。1度目は秋のパブリックで-の合唱だった。一生けん命練習したが、選ばれなかったので、とてもくやしい思いをした。

 

そんな私に、2度目のチャンスが回ってきた。6年生を祝う会での合唱だ。私は迷わず立候補した。たくさん練習もした。朝も早起きして練習した。

 

オーディションの当日は、きん張したが、今までで一番気持ちを込めて弾けた。その結果、ピアノのばん奏者に選ばれた。努力が実りとてもうれしかった。くじけずにチャレンジして良かった。

 

私がここまでがん張れたのは、ライバルとして一緒に練習してきた友達がいたからだ。一緒にがん張た友達の気持ちも背負って、最高の合唱になるよう心をこめて弾いて、最高の合唱になるよう、心をこめて弾いた。(中国新聞投書 少女12)

 

◆まさに小学校6年生の少女の気持ちがよく表現されている。自分で頑張るという意識を持ったことはとても大事なことだねえ。素晴らしい。