今日の画像は、スイスアルプストレッキンのスナップ『氷河が削ったラウターブルネンの絶壁』、北大路欣也主演の『藤沢周平原作・三屋清左衛門残日録』、奥穂のジャンダルムより厳しく、難しい北穂高の『迫力抜群のゴジラの背を進む麻莉亜』。そして、広島南アルプス最南端の山『鈴が峰トレッキングⅡ』です。

 

















































■■雨はやんでいたが、外には霧が出ていた。生あたたかく立ちこめる霧を、軒下や門に掛けてある行燈が照らして、路地は海の底のようにほの暗く静かだった。その中を朦朧とした人影が通りすぎる。清左衛門も人影のあとから歩き出した。

――杉村のことを・・・。
隠しているようには見えなかったなと、清左衛門はおひでのことを思い出している。ただ杉村は、御用向きのほかにも1人で播磨屋に来て、おひでを相手に飲むことがあるらしい。あやしいといえばあやしいが女はそれも認めた。おひでが認めた以上のことが2人の間にあると、布施は何かの確証をにぎっているのかどうか。

そこまで考えた時、清左衛門はふと、数日前に嫁の里江と話していた時にうかびかけた懸念のようなものが、ようやくはっきりした形にまとまって心にうかび上がって来るのを感じた。

播磨屋は藩のお偉方がよく使う料理茶屋である。むろん、だから一介の御蔵方の役人である杉村要助が飲みに行ってわるいという理屈はないが、御用向きでもなく1人で飲みに行くのに似つかわしい店とは言えない。若い藩士が飲みに行くには、ほかにそれにふさわしい店がいくらでもある。

色恋沙汰でないとすれば、杉村はなぜ1人で播磨屋に飲みに行くのだろうか。
――勘定が高いはずだ。

おひでの気持ちをほぐすためにさっきはあんなことを言ったが、一夕の飲み代といえども藩の金を私に流用しているとすれば大問題である。おひでの一件をべつにしても、今度杉村に会ったらそのことは厳重に忠告してやらねばなるまい、と清左衛門は思った。新しい心配が生まれた。

紅梅町の表通りが見えて来た。依然として霧は濃いが、灯は表通りの方が多くてあかるい。路地まで流れこんで来る光の中に、その時清左衛門は妙な動きをする男を見た。頭巾で顔をつつんだ武家である。

その男は播磨屋がある路地に踏み込みかけてから、つと踵を返すと表通りを左に歩いて行ったようである。それが、見ようによっては路地に清左衛門を見かけて顔を合わせるのを避けたようにも見えた。清左衛門の胸にかすかな不快感が動いた。

当然、表通りに出ると同時に男を見た。一瞬杉村要助かと疑ったのだが、背中を見ただけで別人とわかった。のみならず見えている背中に見覚えがある。悠々と遠ざかる大きな背と、わずかに背をゆすうる歩き癖は親友の佐伯熊太、町奉行にちがいなかった。


■■<旭化成社長『グリーン水素を安く・上』>
工藤幸四郎旭化成社長。1959年生まれ、82年慶応義塾大学法学部卒業、旭化成工業入社。2016年旭化成上席執行役員、19年常務執行役員などを経て、22年から現職。同社発祥の地である宮崎県延岡市出身

世界的な景気低迷の影響を受け、業績がなかなか上向かない化学・素材産業。旭化成の工藤幸四郎社長に今後の事業展望や戦略を聞いた。工藤氏は旧態依然とした素材産業のビジネスモデルからの脱却を志向。期待をかける新規事業は、脱炭素の潮流に乗るグリーン水素だ。



――2024年3月期(今期)のここまでの業績を見ると、素材ビジネスの回復は道半ばといった印象です。
『まだまだ回復してきたというしっかりした感触は得られていないのが実態だと思います。そんな中で自動車向けのプラスチックやセージ・オートモーティブ・インテリアズ(18年に買収した米自動車内装材大手)をはじめとする自動車の内装材関連の事業は巡航速度に戻ってきています』
『セージは人工皮革以外にポリ塩化ビニール(PVC)やファブリック(布製品)も含めて豊富に品ぞろえしているのが強みです。社内にデザイナーを抱え、顧客の自動車メーカーときめ細かく擦り合わせできる体制を整えています。これによって顧客のニーズに幅広いグレードの製品を適切なタイミングで供給・提案できます。結果として、ビジネスモデルとしても持続的なものになりつつあります』

◆リスクを恐れず事業モデルを変革
――24年の事業環境をどう展望していますか。
『一番懸念しているのは、世界の政治がどうなっていくかです。紛争や戦争、米大統領選挙もあります。各国・地域がしっかり肩を組み合って進めばいいですが、残念ながらなかなかそうはいきません。そうなると、やはりレジリエンス(強じん性)や、アジャイル(機敏)な対応が今まで以上に問われると思います』
『中期経営計画のスタート時点(22年4月)ではアセットライト(資産圧縮)とスピード、高付加価値という3つの課題を掲げました。とりわけアセットライトとスピードは表裏一体の関係にあると思っています。ここでいうアセットライトとは、未来に向けてどういうビジネスモデルをつくっていくかをしっかり考えようということです』
『今や工場などの建設費は激しく高騰し、新工場を建てるのに2〜3年かかるといったように、工期も長くなっています。素材に求められる機能や価値は変化が非常に激しく、2〜3年後に何が起きているかは分かりません。場合によっては設備投資額が相当膨らみ、「この事業にそこまで投資できるのか」という話になります』――つづく(生田弦己筆)

 

◆本当に水素の時代がくるかな?

■■<母が結んでくれた『百人一首の縁』>母は10年ほど前から、子供の頃に遊んだ百人一首をやりたいと言っていたが、機会もなく、その願いはかなわずにいた。

4年ほど前、外出が減り、自宅で寝ている時間が長くなった母を元気づけようと、近所の方に声をかけ、毎月1回、我が家で百人一首を始めた。

母は札を読みながら、取り札を見つけられないでいる私達を横目に自分で札を取ったり、98歳になってからも、全ての読み札を読んだりと、私達を驚かせてくれた。介護が続き、自分の時間が少ない私にとっても、ご近所さんとの楽しいひと時だった。

母は先月、99歳で永眠した。1人っ子で未婚の私は、寂しい葬儀を覚悟していたが、百人一首の仲間が親戚のように付き添ってくださり、その後も手助けをしてくださっている。母のおかげで良き友人ができた。

お母さん、今月も皆さんが百人一首に来てくれますよ。(神奈川 女性64)

◆なつかしき百人一首だねえ。それが縁となりご近所と友達になって。とても爽やかだねえ。



■■<『世界のオザワ、逝く』──>日本を代表する指揮者の小澤征爾が2月6日、東京都内の自宅で心不全で亡くなった。葬儀・告別式は近親者で営まれ、後日お別れの会を開くことを検討しているという。88歳だった。

征爾は2010年1月に食道がんが見つかり活動休止。食道全摘出手術を受けて、同年8月に復帰したものの、持病の腰痛や肺炎などに悩まされる状況が続いた。2012年3月には、体力の回復に専念するため指揮活動を1年間ストップすることを発表。征爾さんもコメントを発表し、〈私にとって大変つらい決断でありました〉と悔しさをにじませていた。

その後、復帰を果たし、2016年4月にはドイツのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で指揮を執って現地を熱狂させたが、翌年のドイツ公演はやむなく辞退した。本格的な療養生活に入っても、体調はなかなか回復しなかったようだ



『2018年4月に大動脈弁狭窄症の手術を受けてから、本格的な療養生活に入りました。体重が落ちていて、自分で歩くことも難しい状態。言葉も思うようには発することができないといいます。一時は、都内の大学病院に入院していましたが、本人の強い希望で自宅に戻り、24時間対応の看護体制の下で自宅療養を続けています』

当時は歩行も困難な状態だったが、それでも征爾さんはステージに帰ってきた。2022年11月には、長野県松本市で自ら創設した『サイトウ・キネン・オーケストラ』を指揮した。また、昨年9月には総監督を務めた同市の音楽祭『セイジ・オザワ松本フェスティバル』のアンコールに車椅子で登場し、万雷の拍手を送られた。

征爾さんの弟である俳優でエッセイストの小澤幹雄(86)が最後に兄に会ったのは、この『セイジ・オザワ松本フェスティバル』だったという。取材に答え、兄を追悼した。『病気を患ってからは体も動かなくなって指揮もできなくなってしまいましたけど、晩年も『指揮がしたい』と話していました。ステージに上がるのも難しくなり、総監督としてコンサートの陣頭指揮をとっていました。私が最後に征爾と会ったのは、昨年に長野で行われたコンサートです。込み入った会話をする時間はありませんでしたが、こんなに早く別れの日が来てしまうとは思っていませんでした。兄は小さい頃からいろいろなことに気遣いしてくれて、声をかけてくれる優しい人でした。とても感謝しています』

訃報が届いたのは、2月6日の午前だった。『征爾の訃報を聞いて急いで病院へ向かいました。静かに息を引き取ったようで、安らかに眠ったような顔をしていました。よしちゃん(小澤征悦)や奥さんの桑子真帆さんもいて、みんな黙って立ち尽くしていました。大往生だと仰る方もいらっしゃいますが、征爾はまだまだやりたいことがあったんじゃないかと思います。今も兄の指揮する姿が頭から離れません』

晩年は病魔に冒され、思うように活動できなかった征爾さん。愛する家族らに見守られ、天国に旅立った。

◆確か中学生時代だったと思う、小澤征爾はラグビーで指を骨折して、志望していたピアニストの道を断念した。そして、指揮者である齋藤秀雄に出会い、師事を得た。まさに、人生塞翁が馬である。ピアニストの道を歩んでいたら、世界の小沢になれたかどうか。ある意味、本当に小澤征爾は幸運な人生の道を歩んだと言える。

 

長い闘病生活ではありましたねえ。ご冥福をお祈りします。