今日の画像は、スイスアルプストレッキンのスナップ『ラウターブルネンの町角』、北大路欣也主演の『藤沢周平原作・三屋清左衛門残日録』、奥穂のジャンダルムより厳しく、難しい北穂高の『迫力抜群のゴジラの背を進む麻莉亜』、『鬼平犯科帳ワイド版#42』。そして、広島縮景園の『雨上がりの蝋梅ロウバイ』です。久方ぶりの雨。1月としては多く降ったと思います。その雨に打たれた蝋梅、やや元気なく見えます。

 

































■■『色白の美人でな。その上に人に聞くところによるとごく気さくなたちだと申すから、上士の家を鼻にかける気遣いはまずない』
言いながら清左衛門は、頭の中に若かった波津の姿を思い描いているのだが、その波津と娘の多美はぴったりと重なって、自分がしゃべっていることに何の不審も感じていなかった。この平松なら波津どのの娘を幸せにしてくれるのではなかろうか。

平松与五郎は、熱心に弁じ立てる清左衛門を、かすかな笑いをたたえた眼でじっと見守っている。そのもの静かな人柄を、清左衛門はかねがね好ましく思っていたのだった。

平松は清左衛門が月に2度通っている中根道場の高弟で、城では御兵具方に勤めていた。勤めのかたわら道場にも出て、後輩を指導している。3年前に若い妻を病気で失い、男やもめだった。子供はいない。

『そうそう、多美という人は21になるそうだ。貴公は今いくつだったかな』
『27でござる』
『ふむ、年回りもわるくなさそうだ』
『しかし、三屋さま』
平松は眼の笑いを消して率直な表情になった。

『先方は三百五十石の上士で、それがしの家は百石。正直に申して釣合が取れる縁組とは思えませんが』
『しかし多美どのは出戻りだ』
『それがしも初婚ではありません』
『それに加瀬どのには、さっき話した藤川金吾のひっかかりが残っておる。何かの、やはり藤川のその一件が気にいらんのではなかろうな』

『いや、それはまったく』
平松は胸を張った。痩せて見えるが、実際にはぶ厚く幅のある胸だった。
『じつに理不尽な男で、ひとごとながら怒りをおぼえます』
『多美どのを、気の毒と思われるだろう』
『いかにも』
『そう思うなら、この話ぜひ乗ってもらいたいものだ』
2人が話しているのは、花房町の小料理屋『涌井』の小部屋である。藤川を恐れない男が、ここに1人いるのである。清左衛門はもうひと押しするつもりで銚子を取り上げた。


■■<移民問題・中、『テキサスから不法移民をNYへ移送』>メキシコから越境した亡命申請者がNYに集まるのは、保護を求める人に市が宿泊場所を提供するよう定めたっ法律があるためだ。ホームレスの人を想定し、1980年代に設けられた。

この制度を使ってNYで亡命申請者を収容すべきだ――。そんな主張をを始めたのは、メキシコと接するテキサス州の共和党アボット知事だった。2022年夏、国境を越えてテキサスで拘束された移民をバスに乗せ、NYに送った。その後、自発的にNYを目指す移民も増えた。

NYのアダムス市長(民主党)はアボット知事を『無責任な行為を繰り返している』と非難していた。しかし、移民の流入が止まらず、同じ民主党のバイデン大統領にも批判の矛先を向けるようになった。

アダムス市長によると、市は移民支援のため既に14億5千万ドル(2千億円)を支出しており、3年間で120億ドル負担するとの試算もある。『市だけで支援資金をまかなうのは難しい』『バイデン政権の対応で十分』ど訴え、23年9月、市民との対話集会でこう話した。『終わりが見えない。この問題はNYを破産させる』、

移民問題が注目を浴びる中、24年11月の大統領選を見据え、そこに焦点を合わせているのが共和党のトランプ前大統領だ。当選した16年の大統領選でも『国境の壁』を公約に掲げ、移民への強硬策を追い風とした。トランプ前大統領は大統領の任期中も『亡命申請者をメキシコ側へ送還し、審査が続く間はメキシコにとどめる』といった措置をとるようになった。



トランプ政権下でも、パンデミック前の時期を見ると、国境で拘束される中南米出身者は急増していた。移民労働者が米国で重要な役割を担っている実態も踏まえてより本質的に移民問題を緩和していくためには、1996年から見直されていない移民法の改正が必要だ、という点では多くの意見が一致する。

だが、厳しい党派対立が続き、歩み寄って法改正を実現する機運は乏しい。共和党は『不法移民対策に弱腰』『国境警備をおろそかにしている』などと、バイデン政権への批判を強め、『壁が必要だ。壁が効果を発揮した』と持論を展開する、

トランプ陣営も『再び大統領になれば、1期目よりはるかに厳しい姿勢で移民対策に臨む』との方針を語った。『感染対策』を理由に入国を拒むだけでなく、既に米国内にいる『不法滞在者』の大規模な強制送還も進めると主張。過激とみなされるような移民政策を、あえて前面に押し出している。


■■<ロシア富裕層、『タイ・プーケットに2万7千人>『プーケットは楽園であり、ここを第2の故郷にしようとする全ての人を歓迎する』。タイ南部・プーケットのスワランナラート知事はこう強調した。

上質なタイシルクを着た知事は現地の5つ星ホテル、アナンタラ・ラヤン・プーケット・リゾートの最上階にある豪華なヴィラで開かれた『ガーデン・オブ・エデン』のシャンパン付きの開業パーティーに主賓として出席した。

110億バーツ(455億円)を投じて昨年12月に開業したガーデン・オブ・エデンは、南の島のプーケットで過去最大の不動産開発である。コンドミニアムの販売が活況となっている現地の不動産市場が様変わりしたことを示す好例だ。


現地の情報によれば、2022年の住宅購入者で圧倒的に多かったのはロシア人だ。合計8億7.500万バーツを投資して240戸を購入し、フランス、米国、中国、英国の購入者をはるかに上回った。



『この地域を世界の人々にとって住みやすい場所にするという着想を得て、持続可能の課題も重視している』。ロシア出身でマーケティングの責任者チュバロワは語る。チュバロワは、ロシアリゾート都市のソチで不動産開発に長く携わった後にガーデン・オブ・エデンのCEOに就いた男性と結婚した。夫妻は子供をこの複合施設で育てるつもりだ。

現地のプーケット・リポートは『新型コロナ禍以降の現地の急成長は驚異的であり、新しい記録を更新するだろう』と指摘する。23年1~11月の国内・国際線での空港到着客数は624万人を超えており、前年より88%増えた。そのうち外国人到着客は140%に迫る高い伸びを示した。



◆東洋の真珠と呼ばれるプーケットには26の砂浜、透き通った海、素晴らしい自然がある。様々な意味でタイ観光の重要な拠点だ。

しかし問題も数多く起きており、特に交通が最大の悩みの種になっている。各地で交通渋滞が発生しているが、急で曲がりくねった海岸沿いの道路を改良するのは難しい。有料道路や下水処理の整備、空港拡張など、計画中のプロジェクトの数は気が遠くなるほどだ。

政治的な混乱が生じ、23年4~6月期のタイの成長率は2%弱に落ち込んでいた。『政治の問題を忘れ、タイが最大の利益を得るように考えなければならない』。タイのセター首相はプーケットを訪れた際、記者団にこう語り、与党貢献党にはプーケットから選出された議員がいないことも指摘した。

『経済減速時には観光が短期的に成長を促す最善の方法だ』。大手不動産会社を経営していたセター首相は追加調査のため、その後にプーケットを2回訪れた。

『セター首相が観光政策委員会の委員長に就任し、事業環境が良くなるだろう』。現地の商工会議所では、こうした期待の声も聞こえる。



◆プーケットねえ。タイは何度か訪れたが、プーケットには行かずじまいだった。交通渋滞がひどいということで断念したねえ。今も変わらないのだろうかねえ。


■■<阿川弘之『「受勲異聞」>出版社へ電話をかけて、若い女子社員に名前を聞き返されたことが、最近2回ある。『アベカワさん?』『いや。アガワヒロユキと言ってね、執筆者の一人なんだが、分かりませんか』『ええ。すみませんけど分かりません』。

一社は文芸春秋、もう一社は角川書店、これを新潮社の古参編集者に話したら、『うちでも、アルバイトの女の子が出たような場合、それは当然あり得ます』と肯定された。だから、老兵は消え行くのみ、自分はもう忘れられかけの退役文士と、自分で認めていた。それが突然叙勲の話がきて、情緒不安定な取り越し苦労気味の日々を送っているうち、大方1カ月経ち、公示の日が近づいて来た。

重苦しい気分を吹き払ってくれたのは、マンボウ北杜夫の電話だった。マンボウは近頃珍しく躁状態で、『宮脇さんに聞きました』と、初めからくすくす笑っている。『おめでとうございますが、政府はケチですから、ああいうもの、もうすぐ死ぬと見極めをつけた人にしか出さないんです。うちの親父も、文化勲章をもらって一年後に亡くなりました。本当ですぞ、これは』『ひどいことを言って来るもんだねぇ』私は笑い出した。



かかりつけの福村ドクターから『僕は医者だから、よく分かっている。勲章鬱病というのがあるんです。電話は掛かりっぱなしになる、祝電が来る、花が来る、人も次々やって来る、お祝い物が山と届く、対応しきれなくなって脳細胞がおかしくなる病気です。あんた、話してるとすでに、その種の鬱病の徴候がうかがえるよ。すべてほったらかし、人への不義理も止むを得ない、あとはどうでも成るようになれと、そのくらいの積りでないと、本当に危ないよ』と言われた。

その頃、某航空会社の地方支店に勤めるうちの三男27歳からの電話は、私の脳細胞を暫時休息させてくれた。仕事の関係上、旅行代理店との接触が多く、ある日代理店の人に言われたそうだ。『君のお父さん、今度何か勲章もらうんだって?』『ええ、まぁ。もうもらったようですが』『何をしてる人なの、お父さん』『作家です』『ああ、何だ、Jリーグか』。

こんな会話をしましたのでちょっと御報告と、電話が切れた。連日の緊張状態を解きほぐされた感じがし、『おいおい』、大声で私は女房を呼び立てた。『今説明するけど、よく出来た話だ。よく出来てるぜこりゃ』。

◆阿川佐和子によると、父弘之は相当なワンマンであったと。母は洋服が似合わないから、和服にしろと。その母がなくなり、多くの和服が遺品として乗った。今、佐和子は母の和服を次から次へと着こなしている。結婚したのは60歳を超えて、3年前か。おっと、2017年だからもう6年も経つんだ。



佐和子は60歳を過ぎた63歳て結婚。結婚相手を入院中の父に知らせねばと考えている最中、週刊誌でそのことが報じられた。病院へ行くと、それを読んでいた父弘之は、『本当か』と問いただし、『お前が幸せならそれでよい』と、相手の男性にも会わなかったそうである。佐和子によると、入院見舞いで多くの人が訪問してくれたのはよいが、どうやら人疲れして私の相手にも会うのをスキップしたようである、と感想を述べている。

阿川佐和子が週刊文春で『この人に会いたい』というページを受け持っている。私が当時勤めている会社の社長へ取材のオファーが入り、取材の前、社内にある来客用の食堂で昼食をご一緒した。その時、小さい頃何度か広島市白島町に住んでいいた祖母を訪ね、小イワシを売り歩く叔母さんの声がなつかしかったと話していた。

てっきり阿川家は広島の人だとばかりおもっていたが、広島に住まわれたのは軍人だった祖父の時代から。もとは、鎌倉時代、山口県の西にある阿川という地の地頭で土着したらしい。そして、山口県中部秋吉台近くに長く住み、祖父が軍人になり、退役後の住まいを広島に設けたそうだ。

◆阿川佐和子のたどって運命も不思議だ。神様が与えてくれたチャンスをことごとくものにして今の阿川佐和子がある。大学卒業後、出版社へ勤めようと思ったが、全て不合格。アルバイトかたわら、イラストを書いていたらそれが気に入られて『あなた、やってみない』『是非やらせてください』と、最初は物書きではなくイラストレーターとして出発した。それが文筆家になり、さらにはマスコミで司会業なども幅広く行うようになるのだから、まさに、人生は塞翁が馬ではあるなあ。大学の就職試験でどっかの会社に受かっていたら、とても今の阿川佐和子は誕生していなかった。もちろん佐和子の就職について、父弘之は何ら手を差し伸べて、アシストしてはいない。

ただ、親心であろうか、佐和子が出した本を一冊一冊丁寧に読み、赤字で文章訂正を入れていたという。阿川浩之らいしい父親愛ではある。