今日の画像は、スイスアルプストレッキンのスナップ『ラウターブルネンの駅で出会ったカップル』、北大路欣也主演の『藤沢周平原作・三屋清左衛門残日録』、奥穂のジャンダルムより厳しく、難しい北穂高の『迫力抜群のゴジラの背を進む麻莉亜』、3月3日のひな祭りの『飾りびな』。そして、色鮮やかなる『ガザニアⅡ』です。

 

このカップルに声をかけたのには、理由がありました。なんと、女性が素足であるいているのです。Why?と聞くと、これkらラウターブルネンの岩壁を登攀するのだと。足の裏の神経を研ぎすますために、素足で歩居るのだそうだ。300mの岩壁クライム、すごいと思いました。

 



































■■『さきほどのことだが・・・』
別れの挨拶をかわした後で、清左衛門が口ごもりながら言い出した。
『魚崎からそれがしと同道したこと、途中雨宿りしたことは申されてもよいが、その余のことはたとえお家の方といえども、一切口にされぬ方がよろしいかと思う』

これが雨宿りの場所から城下にたどり着くまで、清左衛門がずっと気にして来たことだった。雷雨の中で抱き合ったことに、どう始末をつけるべきかと、清左衛門はうろたえていたのである。

話が外に洩れればたとえ雷のためとはいえ、男女相擁して済むと考える者はいまい。理由が雷などというものであるがゆえに、いっそう誤解をまねきそうである。事実明るい月の光に照らされて歩いていると、さっきは波津と自分、2人ともに世間的な分別を取り落としていたのだということがよく見えて来るのだった。

それならば一切沈黙するにしかずと、21歳の分別がようやく結論を出したのである。清左衛門の言葉を波津はすぐに理解したらしかった。はっとしたように清左衛門を見つめると、波津は分かりましたと言った。

『そのようにいたします。ありがとうございました、三屋さま』
『こちらも、誰にも洩らさないゆえご懸念なく』
そう誓ってから、はや30年になると三屋清左衛門は寿岳寺からもどった夜、机に向かいながら思っていた。

波津という人と、はからずもひとつの秘密を分け合うことになったその日の出来事は、波津が加瀬家の人となり、また清左衛門も家督をついで喜和を嫁に迎えた後もなお消えがたく記憶に残った。

あの頃は物を知らなかったといいう、淡い悔恨をともなう感情がその思い出に加わった。しかし30年も経てば記憶はやや色あせ、数年前にその人が病死したと聞いた時も、さほどに深い動揺はなかったはずなのだが・・・。
――しかし忘れたわけでもなかったようだ。
と清左衛門は思った。

清左衛門は日記を開き、筆を取り上げると、『寿岳寺に礼物。寺にて加瀬家の息女に会いたり。多美女と申される由。何かは知らねど、あるいは清光信女仏の引き合わせにてもあらむか』と記した。そう書きながら、清左衛門はひさしぶりに身体の中に若い血が甦るのを感じていた。


■■<ポーラ及川社長十訓Ⅵ『「ピンチ」体験は自分も他人も幸せにするチャンス』>私の会社員人生は『ピンチはチャンス』の連続です。

20代で販売子会社へ異例の出向を命じられたり、30代半ばで管理職昇格試験に落ちた上に酷評されたり、40代直前で本社に戻った途端に商品のリコール回収問題が起きたり・・・試練を前向きにはとらえられず、荒れたこともありました。

ただ今にして思えば、ピンチは自分や組織を変えるきっかけとなりました。言い換えるなら、本質的な問題に気付くチャンスだったのです。



2020年1月の社長就任直後には、コロナ禍に直面しました。当社の企業理念は『美と健康を願う人々および社会の永続的幸福の実現』です。未曽有の事態に直面し、危機のその先を考え続けているうちに、企業理念に立ち返って『そもそも幸せとは何か』を研究しようと思い立ちました。

2021年4月、『ポーラ幸せ研究所』を創設しました。幸福学の第一人者である前野隆司慶應義塾大学大学院教授とパートナーの前野マドカさんとの共同研究を始め、現在は所長である私を含めて25人ほどの社内メンバーと活動しています。

その研究課程で印象的だったことがあります。ポーラショップのオーナーで『本人の幸福度が高く、成果を出している』人達は皆、『上長(もしくは家族)に愛され支えられた経験』と『人生において痛みを知る経験』のいずれか、もしくは両方について強い記憶を持ち、それについて語っていたことです。

自分の力ではどうにもならない事態に苦しみ、周囲の人に支えられて今の自分があるのだと気付く。そんな『ピンチ』体験こそ、職場のチームマネジメントに好影響をもたらす学びと、自分も他人も幸せにするきっかけがあると改めて感じます。


■■<積水ハウス、『米社買収、7,200億円』>積水ハウスは、米国の住宅会社『M,D,HD』を49億ドル(7,200億円)で買収する。積水ハウスのM&Aでは過去最高額となる。日本の住宅市場は人口の減少で縮小傾向にあり、大和ハウス工業なども米国への投資を増やしている。海外での成長に向け、円安下にあっても投資を積み増す日本勢の姿勢が鮮明だ。

米グループ会社のSHレジデンスHDを通じてMDC社の全株式を取得する。米国時間17日に契約を結んだ。買収資金は金融機関からの借り入れでまかない、7月の中間期末までの買収完了を目指す。

MDC社の売上高は2022年12月期で57億ドル。。買収で積水ハウスグループは住宅の引き渡し数が年1万5,000戸まで拡大し、全米第5位に相当する大手の一角となる。

積水ハウスは西部や南部を中心に事業を展開してきたが、東部にも広げる。



積水ハウスの仲井社長は『米国での戸建て事業の骨格ができる』と買収の意義を説明した。そのうえで『予想以上に米国の住宅需要は旺盛だ』と強調した。

◆コンビニも損保も、そして住宅も日本国内での市場が伸び悩む中、海外へ活路を求めての進出が続く。でも、日本の住宅建設会社がアメリカで活躍するとはとても面白いねえ。


■■<新聞作って『広甘藍をPR』>呉市の特産キャベツ『広甘藍ヒロカンラン』のはん売の体験をしました。私たちは前日に収かくした広甘藍を全部売るために、新聞を作って地域や家の人に配る作戦を立てました。

私の班の新聞名は『広甘藍新聞~あなたの家の食たくに~』です。試食した時、葉だけでなく、しんも甘くておしかったので、みんなにも食べてもらいたいと思ったからです。見出しも『気持ちは同じワンチーム』『伝えたい! この思い』と、きょう味を持ってもらえるよう工夫しました。

広甘藍が店に並ぶまでには生産者や市農業振興センターなど多くの方が関わっておられました。話を聞き作業をする中で、良い物を届けたいという気持ちあh同じと分かりました。

はん売会場に着くと、お客さんがならんで待っていたのでびっくりしました。レジをしている時、お客さんが『ありがとう』と言ってくれました。

たくさんの人が新聞を読んでくれたんだなと思いました。全部売れてよかったです。(中国新聞投書 l呉市 女性10)



◆10歳といえば、小学校3年生くらいかな。この文章も一生懸命書いたという雰囲気が伝わってくるねえ。子供達の純な気持ち、本当に大切だ。

◆『広甘藍』 明治末期から呉市広地区で育成され、大正後期に市場において高い評価を得た。これ以降、栽培農家は増加した。しかし、50年ほど前からその姿を見なくなり、絶滅したとも言われていた。
永く呉市農業振興センターは広甘藍の種子を保存し、家庭用に苗を配布するなど地道に広甘藍を守ってきた。農業者の高齢化の進む呉市では、農業者の収益アップを図り、高齢化の進む地域に担い手を育てようと、広甘藍のブランド化に取り組むことにした。呉市農業振興センターの呼び掛けで、まずは生産者と広甘藍の生産方法などを学ぶ勉強会を開催し、2010年6月に広カンラン生産組合を組織した。こうして広甘藍の生産に市を上げて取り組むことになったのだ。
広甘藍は柔らかい葉と甘味が特長ですが、そのぶん虫が付きやすいのが難点。農業振興センターでは実際に育てながら、より良い広甘藍を作るべく、丁寧にデータを取り続け、生産者とともに強い土作りも行っている。また一つ一つの畝に防虫ネットを張り、手間がかかっても減農薬栽培に努めている。生産者と農業振興センターがともに地域の活性化につながる広甘藍の生産を行っている。