今日の画像は、スイスアルプストレッキンのスナップ『電車乗り換え、インターラーケン東駅前の風景』、北大路欣也主演の『藤沢周平原作・三屋清左衛門残日録』、奥穂のジャンダルムより厳しく、難しい北穂高の『迫力抜群のゴジラの背を進む麻莉亜』。そして、花期の長い花『ヒメツルソバ』と、冬の花『サイネリア』です。サイネリアの青は、まさに群青色にも通じる青ではあります。

 

































■■清左衛門は思わずおどろきの声を洩らしそうになった。山吹町の杉浦兵太夫は物頭で、その家の娘は波津。美人の聞こえが高く、家中の若者なら大ていは名前を知っている噂の人である。

ただしもう主のある花で、その人は御番頭の加瀬家の惣領伝八郎と婚約がととのっている、といったことを清左衛門も道場の行き帰りに聞く仲間の噂話から知識として仕入れていたが、本人を見たことはなかった。杉浦も加瀬もいわゆる家中上士で清左衛門の家とは家格が違い、顔を合わせる機会もなかったのである。

その噂の女性と同道することになった偶然に、清左衛門は胸がときめいた。その動揺が顔に出たらしく、店の主人が言った。
『波津さまをご存じでしたか』
『お名前だけはな』
『これはさいわい。では何分お頼みいたしまする。失礼ですが、あなたさまのお名前を・・・』

そういういきさつで、清左衛門は杉浦の娘波津を同道して、城下にもどることになったのだが、その道行はかなり窮屈な感じを伴うものだった。

若い娘を連れて道を歩くなどということは生まれてはじめてのことで、第一その年ごろの娘と何を話したらいいものやらさっぱりわからない。その上人にあやしまれてはならないという気遣いがあるので、行きかう人間にたえず気をくばることになった。有体に言えば清左衛門はすっかり動顛し、その動顛のためにくたびれてしまったのである。

では波津との道行は迷惑なだけかといえば、そんなことはなかった。波津は噂にたがわぬ美人であったが、その美しさを鼻にかけるような女性でないことは、顔をあわせて挨拶をかわした時にすぐにわかった。波津は物言いも立ち居もごく控えめで、その美は内側からにじみ出て来るような女性だったのである。

挨拶の中で清左衛門に迷惑をかけると、しきりに恐縮していたのが好もしい印象をあたえた。


■■<ポーラ及川社長十訓Ⅳ『現場の一次情報を頭に入れる』>公私どちらの場でも、仕事についての一次情報を入手することを意識しています。特に大事なビジネスパートナーであるポーラショップには定期的に訪れます。

オーナーやビューティーディレクターは、ポーラと委託販売契約を結んだ個人事業主です。彼女達の当社への期待や不満、現在の悩みといった生々しい話は、膝を突き合わせるからこそできる話です。

お店の空気が雄弁に物語ってくれることもあります。仲間同士のコミュニケーションが円滑とか、居心地のいいお店かといったことはドアを開けた瞬間に伝わってきます。



1店舗につき30分から1時間、年間で60~70店舗は訪れます。。それだけ回れば、ご年配のオーナーが頑張っているお店も、若い人達が元気よくやっているお店も、様々なあり方を見ることが出来ます。

社長である私は社員からの提案を聞く立場にあり、気を付けないと裸の王様のように良い情報しか受け付けない人になってしまう。それでなくとも社員としては、悪い情報は社長に入れたくないものです。

私は会社員人生のスタートがショップのサポートでしたし、化粧品会社の女性ですから消費者の立場に近い。今は社長であると同時に現場や消費者に近いことを一つの強みと捉えて大事にしているのです。また、あちこち出歩くようにしているのは、色んな人から当社へのリアルな評価を聞きたいからという動機もあります。

先日は、富良野へ移住した女性が主催した『ふらの女性サミット』という異業種交流イベントに誘われ、お邪魔しました。当社への感想をいただくと同時に、様々な地域や立場の女性が見たダイバーシティの現状や課題に触れることが出来ました。

こうした場で得た情報を会社に持ち帰り、『次に私達が出来ることは何だろう』と検討することにも繋げています。


■■<瀬戸内海の魅力、島から発信『トム・宮川・コールトン』>『トム・宮川・コールトン(42)』は、広島県呉市の離島、大崎下島在住の写真家だ。航空会社や観光サイトなどから依頼を受けて、瀬戸内海を中心に日本各地の観光記事を執筆している。島産のミカンの甘さにほれ込んで移住してから8年。『人生に退屈しない島』で笑顔の絶えない日々だ。



宮川は英国人の父と日本人の母を持ち東京で生まれた。6歳で英国に渡ったが、大学は日本語学科で学び上智大学に留学するなど日本への興味を持ち続けた。

もう一つの興味は写真だった。高校生の頃から報道やドキュメンタリーの写真に引かれ、大卒後に就職した会社を2年で辞めて写真家のアシスタントを始めた。ロンドンの大学院で本格的に写真を学び、米国でオーガニック農家を取材するなどした後、より深く日本を知るために2009年に日本に移住した。

とはいえ、来日しても仕事のアテはない。新宿の紀伊国屋書店の雑誌コーナーで自身の写真を紹介してくれそうな雑誌社を探し、過去の写真を持参して売り込んだ。日本を取材する英字紙や雑誌から依頼を受け、撮影と取材の調整役を任されるようになった。

オーガニック農家を取材した経験から田舎暮らしに興味を持ち、妻とともに東京を離れることにした。暖かい海沿いの地域を探して参加した移住説明会で、広島県職員に熱心に誘われ大崎下島を下見した。

瀬戸内海の多島美を構成する景観や島民の温かさを気に入ってが、決め手はミカンだ。路上販売で購入して食べてみるとあまりのおいしさに『今までのミカンは何だっ短だ』と衝撃を受ける。15年に江戸時代の町並みが残る重要伝統的建造物群保存地区である『御手洗地区』に移り住んだ。



◆移住直後から観光向けの英文記事作成の仕事が次々と舞い込んだ。政府が訪日客増に本腰を入れていたが、当時は英文の観光記事は内容が外国人目線ではなく、翻訳の質も低かった。瀬戸内海周辺でもPRの機運が生じており、英語ネーティブで取材の調整と執筆、撮影の全てを1人でこなせるため重宝された。

21年に英文記事や動画の制作会社『アイランド・ピクチャーズ』を立ち上げた。大手旅行サイトや海外の航空会社などから依頼を受ける。現在は瀬戸内に限らず、東京や北海道など全国各地の観光地を紹介する。

記事が注目され、NHKの国際放送にとびしま海道のナビゲーターとして出演した。『何でも屋ですよ』とはにかみながら、『ここは人生に退屈しない島だ』と熱く語る。

『畑も空き家も何でもある。ここではやろうおと思えば何だって出来る』、自身も3歳の長男の子育てに忙しい毎日だが、今年は茶道を始めるという。



◆御手洗は、とても静かで古い佇まいをみせてくれる。確か、江戸に時代には海運で賑い、遊郭もにぎわったそうだ。小高い丘に、遊郭で働き亡くなった人達の墓がある。時代は時を超えて人に懐かしみを与えてくれる。


■■<メイドイン広島『鮮やか、トーホービーズ』>『メイドイン広島』のガラスビーズが国内外から注目を浴びている。70年近い歴史を持つ『トーホー』がこれまでに手掛けたビーズの形状は80、色は1,000にも及ぶ。熟練の職人が長年培った技術で作られるビーズは形状や色の正確性が評価され、国内外の有名アパレルブランドの衣類などにも使われている。

トーホーの創業者は山仲巌社長の祖父、山仲一二。出身地である広島県福山市は戦前、ガラスビーズの生産が盛んだったという。一二は戦後、復興に向けて動き出した広島市で女性が華やかな服装をしているのを見て『女性が輝く未来を作っていくのがこれからの日本には必要』と感じ、衣類を彩るガラスビーズの一貫生産を決意。1957年、広島市内にトーホーの前身となる『東宝グラスビーズ』を設立した。



はじめは和装の小物などの装飾用に生産していたが、60年代頃には中国やインド、東南アジアなど衣料品の工場が集積する国への輸出を始めた。山仲社長は『早い段階から海外を意識していた』と話す。

1.5~5.5ミリメートルの正確な製品を作るために、原料の配合や成型などに蓄積された知見や職人の技術力が生かされている。工場では若手からベテランまで、70人が勤務しており、1日当たり1トンのビーズを生産している。

トーホーのガラスビーズは経年劣化による色落ちが少なく、色むらもないのが特徴。穴が大きく形状にほとんど誤差のない『アイコビーズ』は2009年度に優れた特産品『ザ・広島ブランド』に認定された。



ガラスビーズの生産量は海外向けが8割を超える。ガラスビーズを製造している国は日本を含めて世界に4カ国だが、他の国は大量生産している安価なものが多い。服飾の有名ブランドは、多少値が張っても衣類の前面など特に目立つ位置にあしらわれるビーズで日本製を使うため、トーホーに注文が寄せられる。

昨年5月に開かれたG7では岸田文雄首相の妻、裕子さんの要望でビーズで作った折り鶴型のブローチを制作し、各国首脳の配偶者に贈られた。



ガラスビーズは古来、装飾だけでなく他者とのつながりや祈りの象徴として用いられてきた。山仲社長は『ビーズを通じて、人と人をつなぐような取り組みをしていきたい』と語る。

◆ふーん、ビーズが『ザ。広島ブランド』とは、知らなかったねえ。調べると、トーホーは三篠町にあるらしい。横川の北に位置する。トーホービーズは広島の誉れなんだねえ。素晴らしい。