今日の画像は、スイスアルプストレッキンのスナップ『乗換駅、インターラーケン東駅』、北大路欣也主演の『藤沢周平原作・三屋清左衛門残日録』、奥穂のジャンダルムより厳しく、難しい北穂高の『迫力抜群のゴジラの背を進む麻莉亜』、14日のサッカーアジアカップ・ベトナム戦で向かい風を跳ねのける『大活躍をした南野拓実』。そして、広島の里山縦走『三滝山~丸山~大茶臼縦走Ⅳ 大茶臼山頂』です。

 













 

 



















■■そのささやかな百年忌の法事を昨日終えて、清左衛門は今日は、昨日のうちに済んだ法事の諸掛かりの精算とはべつに、寺に対する礼を思いついて、改めて寿岳寺を訪ねて来たのである。三屋家の仏について問い合わせた不審には寺でも気づいていた。そして老住職の徳元は、寿岳寺に伝わる古い覚え書の類を綿密に調べ直してくれたのである。

その調べで、清光信女の正体が知れたわけではなかったが、仏が三屋家の者か、少なくとも三屋家ゆかりの者であることは確かめられたのであった。清左衛門が礼物をたずさえて来たのは、徳元和尚のそのときの骨折りに謝意を表するためである。

百年前の、生前の姿を知らない死者の法要だったが、済ませた後の気分は意外に快いものだった。死者がその法事を、間違いなく生者がささげるなどして受け取ったかのような感触が後に残ったのである。清光信女、俗名かなという女性は、法事を介して清左衛門たちに親しい仏となった。清左衛門が、寿岳寺の骨折りに改めて礼物を考えたのも、その後味のすがすがしさとかかわりがなかったとは言えない。

庫裡の、住職の居間での話も、もっぱら清光信女のことになった。
『戒名から考えて、どうもまだお若かった方のように思われますな』
と徳元は言いながら、清左衛門にお茶をすすめた。手のひらに隠れるような、小さな茶碗である。茶はにがく香ばしかった。

『そこでいろいろと考えてみました。仏は三屋さまの奉公人だったが、身よりのない女子だったので、三屋家の仏として葬ってやったとか、あるいは奉公は奉公でも、ひょっとしたらお妾さんではなかったかとか』
『妾?それはなかろう、ご住持』
清左衛門は苦笑いした。

『わしの家は、妾を囲うほどに沢山の禄をいただいておるわけではない』
『いいえ』
徳元は首を振った。
『三屋さまはつつがなく跡取りにめぐまれましたからそうおしゃいますが、そうでないお家は、いまでもひそかにお妾をお用いでありますぞ。三屋さまより禄が少ないお家でもそうです』


■■<『「鏡獅子」20年ぶりの岡山・井原に里帰り』>近代日本を代表する井原市出身の『彫刻家・平櫛田中』の作品を集めた井原市立美術館は2年3カ月の休館を経て、昨年4月18日にリニューアルオープンした。その間は、新館が出来上がるにつれて市内外の方から『いつ開館するのですか』『とても楽しみにしています』という声をいただいた。

リニューアルオープン後は連日、多くのお客様にご来館いただいている。『作品をゆったりと鑑賞することができた』『平櫛田中先生のことがよく分かった』『2階、3階からの眺めが素晴らしい』などの感想をよくお聞きする。



平櫛田中の代表作といえば、やはり『鏡獅子』が有名だ。制作に22年の歳月を費やし、86歳の時に完成させた作品。平櫛田中は、人体の基本をつかみ取るために、まず裸像の試作を作っている。次に、小型の試作を制作し、全体の美しさを追及する、というように試行錯誤をしながら、理想の作品を目指して、取り組んでいった。



左右の手で袖口をぐっと絞り、、足を前後に開いて踏ん張った歌舞伎役者の像からは、みなぎる緊張感を感じる。完成当時、国が2億円で買い上げたいと申し出た際、平櫛田中はモデルとなった6代目尾上菊五郎と2人で作ったものであると言い、無償で国に寄贈したことも有名な逸話となっている。

『鏡獅子』は東京の国立劇場に展示されているが、この度、国立劇場の建て替えに伴い、20年ぶりに井原市へ里帰りすることになった。公開展示は2月7日から、5年間の予定だ。ぜひ多くの方に、本物の『鏡獅子』をご覧いただき、その迫力を体感していただきたいと思う。



井原市立平櫛田中美術館は、先ほど述べた裸像や小型の試作品、石膏原型、製作途中で納得がいかず制作をやめた像などを所蔵している。

それらと合わせてご覧いただくことで、平櫛田中の作品制作への飽くなき探求心を感じることが出来ると思う。(伊藤裕二郎井原市立平口田中美術館長)

◆もう30年くらい前になるだろうか、この井原美術館を訪問した。見事な彫刻作品、平櫛田中の腕前をすっかり堪能した。昨秋、もう一度この美術館を訪れたいと計画をたてたが、未だ未達だ。とてもよい情報を得た。是非春先までに出かけてみたいものだ。


■■<私立千葉科学大学『公営化顛末点描』>千葉県銚子市の景勝地『犬吠埼』にもほど近い施設の隣地に『千葉科学大学』が開学したのは2004年のことだ。経営母体は岡山県に本部を置く『学校法人・加計学園』である。理事長はあの阿部晋三の大のお友達である『加計孝太郎(72)』である。



大学を街づくりの核に――。元官僚で岡山県出向時代に学園とのパイプを築いた当時の市長は、大学誘致を選挙公約に掲げた。若者の都会への流出を食い止める『人口のダム機能』などを期待し、10ヘクタールの市有地を無償提供。建設費77億円余りを助成した。

だが、人口は減り、市債発行で財政は危機的状況に。職員給与をカットし、ごみ袋を値上げするなど誘致の『請求書』は市民にも届いた。

苦節20年。2年後にようやく市債を償還する見通しがついたのだが、23年の秋、学校法人の理事長が『大学を公立化してほしい』と要望した。薬学部、危機管理学部、看護学部からなる大学の23年度の新入生の定員充足率ハ50%を割り込んだ。

私立から公立に設置形態を変更した大学は定員を上回る入学者を確保し、地方交付税を財源とした運営費交付金により安定した経営を続けている――。要望書はこう語り、市に公営化の決断を促す。

果たして、いいことずくめなのか。銚子市は公立大学への移行の当否を有識者諮問会議に諮り、半年後をメドに方向性を打ち出す。

◆越川信一市長に本音を尋ねてみた。大学の存続を望むとしたうえで『全国の公立大学のうち国の交付金以上に財政支出する「持ち出し」になっている自治体もかなりある』と分析する。

財政再建で苦労を重ねた。このため、交付金の範囲内で運営することを公立化の条件とし、市と大学側が結ぶ協定書でこの点を確約する必要があるとの認識を示す。仮に収支不足や設備投資の資金需要が生じた場合も、大学側の内部留保で充当するよう求めるという。

兵庫県姫路市が、地元私大の公立化要請を財政上の理由などから拒んだ事例も念頭にあるようだ。23年12月の市議会での答弁で、越川市長はこれまでの大学誘致の経済効果などを有識者会議で検証し、開示することを約束した。

《公立化→交付税による財源の安定→学費値下げ→定員割れ解消》という図式はこれまで一定の成果を上げてきた。が、急速な少子化でこのスキームが揺らいでいる。税金で定員割れした大学を救済することに対する批判も根強い。
『生き残るためには単に公立化するだけでなく、その後も魅力ある大学づくりを進めて定員を満たすことが必要だ』と越川市長。

学びの価値を向上させる経営改革の処方箋を示せるか。大学側の説明責任も問われている。



◆銚子市は希代のペテン師『加計孝太郎』にしてやられたね。市民はどう考えているのだろうか。偏差値30以下程度の大学が、単に公立化したからといって、これからの少子化時代に生き残れるわけがない。他の既存大学、特に東京の大学は生き残りに必死だ。銚子市の素人役人が大学経営に携わったところで、黒字化出来るわけがない。岡山理科大のベテラン達が取り組んでの大赤字だからなあ。しかし、引き受けなければ、孝太郎君は大学を閉鎖するだろうなあ。まあ、それもよしだ。赤字垂れ流しの大学など人口5万人の銚子市が持つべきではない、と、拙者は思うねえ。

広島にも大学は溢れている。いつか、どこかで、大学経営が破綻をきたすであろう。その時、市民はどう反応するか。広島には既に県立大学、市立大学があり、私大の公営化はむつかしい。合従連衡の時代ではあるな。