今日の画像は『奥穂高への道670 奥穂高下山・上高地の自然美 明神附近』、昭和のモンスター『阿久悠』、『G7小中高POPコンテスト入選作品東京。そして、過ぎ去りし花『ツツジ、つつじ、躑躅 Ⅱ』です。

 







































■■■私は、『阿久悠』が亡くなってからすっと後になって気付いた。正直言って『阿久悠』って大変な人だったんだねえ、と大いに感動した。ピンクレディの『UFO』や八代亜紀の『雨の慕情』、沢田研二の『勝手にしゃがれ』などレコード大賞・作詩賞などを次々に受賞した。そして、それぞれの賞に最多受賞を記録する快挙を挙げ、『スター誕生』を主宰していたが、私は当時阿久悠をそれほど気にしていなかった。が、作詞賞を受けた、小林旭の『熱き心に』や『津軽海峡 冬景色』を私の持ち歌にして以来、私の心の中での阿久悠の存在はどんどんと大きくなった。5,000曲を超える作詞を遂げ、まさに『昭和のモンスター』とも言える存在である。没後15年、昭和のモンスター『阿久悠』を振り返る。

■■『ざんげの値打ちもない』を発表した時に、あたかも文芸時評のように作品論を展開してくれた人がいた。それによって作詞家になる決意もした。その人は当時スポーツニッポンの文化部記者であった、小西良太郎である。この出会いもまた、一生の中で何十年間かを託すほどの、運命的遭遇であった。

僕は自分に才能があるのかどうか、まあ今まで結果を残して現役に留まっているのだから、何がしか以上のものがあったと思うが、やはりそれがどう世と繋がったかを考えると、人である。僕は人に恵まれた。それもお願いしたり、助けを求めたりして出会った人ではなく、相手の人がじっと日常の僕を見ていて、向うから声を掛けてくれ始まった関係である。

宣弘社時代からそうであるが、僕は自分に与えられた仕事がつまらないと認めることが厭なので、つまらないと思える仕事ほど一生懸命やるところがあった。無駄な抵抗に過ぎないこともあって、つまらない仕事はつまらない仕事、どう力や知恵を注いでも金ピカにならないことも多いのだが、僕はとりあえず、期待以上のものにすることを仕事の姿勢にしていた。それは今も続いている。

すると、その無駄な抵抗ぶりと期待以上の成果を見ていてくれる人がいた。常にそうだった。放送作家になるきっかけも、作詞家になるタイミングも、全てそういう人達が声を掛けてくれたもので、僕からは何もしなかったのである。

この小西良太郎もそういう人の1人である。そして、彼とは一瞬の出会いではなく、繰り返し続いている。当初こそ作詞家と文化部記者との関係で、歌謡曲論などを闘わせていたが、そのうち詞以外の文章も勧められる。最初のエッセーも、スポーツニッポン新聞に『無口な奴ほどよくしゃべる』と題して連載する。スポーツ専門紙が真の大衆紙に移行しようとした時代で、それに合致したことによるものだろう。小西良太郎が社内でどんどん偉くなったこともあって、僕が紙面で書くのも果てしない感じで増えていった。

それは、おおむね夜に食事をし、水割りの何杯かを飲んでいる時に出る。思いつきのようであるし、用意していたようでもあるが、実にいいタイミングで持ちだされて、僕の新しいことをやってみたい気持ちを、心地よく刺激するのであった。そして、全てが初めてのジャンルで、不安もあるが、それを超えて驚かせてやろうという気持ちが僕に働き、期待以上を目指すのであった。

2年間にわたって連載した『実践的作詞講座』も、今読むとテンションの高いものもあるし、『甲子園の詩』に至っては、今年で連載25年を迎える。14日間48試合を全部見て、毎日一篇感動詩を書くのである。ライフワークになるかも知れない。

そして、小説である。これも彼との話で始めた。生まれて初めて書く小説が新聞の10カ月連載とは、頼む方も頼む方だが、引き受ける方も引き受ける方だと、ある作家に言われたほどである。小説は『ゴリラの首の懸賞金』という大スケールの活劇小説で、僕は自分でも呆れるほど懸命に、血と性と暴力の物語を描いたのである。

<第5回目のレコード大賞『雨の慕情』  作詞:阿久悠 

                                                          歌:八代亜紀 作曲:浜圭介>
 心が忘れたあのひとも 膝が重さを覚えてる
 長い月日が膝まくら 煙草プカリとふかしてた
 憎い 恋しい 憎い 恋しい めぐりめぐって 今は恋しい

 雨々ふれふれ もっとふれ 私のいい人つれて来い
 雨々ふれふれ もっとふれ 私のいい人つれて来い

 一人で覚えた手料理を なぜか味見がさせたくて
 すきまだらけのテーブルを 皿でうずめている私
 きらい 逢いたい きらい 逢いたい くもり空なら いつも逢いたい

 ※雨々ふれふれ もっとふれ 私のいい人つれて来い
 雨々ふれふれ もっとふれ 私のいい人つれて来い※ (※くり返し)


■■<394万人が餓死した…ウクライナの歴史に刻まれた『ロシアへの怒りとトラウマ』>【100年前から『憎しみの連鎖』は続いていた】

◆『母国語を話すだけでいじめられた』 ETV特集『ソフィヤ 百年の記憶』(2023年3月18日放送)は、在日ウクライナ人のソフィヤさんが、自身の先祖がロシアから受けた苦難の歴史を家族と一緒に掘り起こすという、異色のドキュメンタリーであった。

番組タイトルに『ソフィヤ 百年の記憶』とあるが、ソフィヤさんの曾祖母が同じ名前の『ソフィヤ』で、ちょうど100年前のウクライナに住んでいて、ロシア(ソ連)の占領下を生きていたことに番組名が由来している。

今回は、このETV特集にも触れつつ、ウクライナとロシアの100年の歴史を紐解いていこう。番組の放送は終了してしまったが、NHKオンデマンドで観ることができる。さながら一本の映画を観ているような力の入った構成であった。

番組で強調されていたのは、在日ウクライナ人たちが、これまであまり意識をしてこなかった『祖国・ウクライナ』を強く誇りに感じるようになったということだ。代表的な例は、クリスマスだろう。これまでロシア正教と同じ1月に行っていたクリスマスのお祝いを、去年から12月に変えることになった。その意図は、『侵略者・ロシア』によってつくられた忌まわしい慣習を取りやめたいからだという。

1991年のソ連崩壊までは、『ウクライナ語を話す人は田舎者って言われました。それはプロパガンダだと思います。いじめは多かったんです。ウクライナの言葉、ウクライナ文化について話すことは安全ではなかった』(ソフィヤさんの実母・ナタリヤさん)という。ナタリヤさんは、のちに夫となる人物と話す際、デート中も結婚後もロシア語だったという。もちろん、ナタリヤさんの夫はウクライナ人で、ウクライナ語のネイティブだ。

◆『「偽りの独立」とは』 家の中でも話せないことは多かったという。誰だかわからない人に密告を受ければ、即逮捕。多くの知り合いが身に覚えのないことで拘束され、戻ってはこなかった。ソ連の秘密警察は、高齢者であっても容赦なくムチを打って、自白とさらなる密告を要求した。苦痛に耐え切れず、嘘の自白をするまで帰してもらえず、そして嘘の自白をもとに新しい『囚人』が連行され、ムチを打たれ、ささいなことで銃殺された。

殺す場合は、本人だけでなく、家族、親戚全員がまとめて殺されるケースもあった。 生き延びるため、ウクライナ人たちは次第に無口となり顔から表情は消えていった。

ロシアのプーチン大統領は、ウクライナへ侵攻した後の演説で『改めて強調しておく。ウクライナは、私たちロシアにとって単なる隣国ではない。私たちの独自の歴史、文化、精神世界から切り離すことのできない一部分だ』として、ロシアとウクライナは歴史的に一体であり、『ウクライナはロシアの一部分』であると述べている。 

これは本当なのだろうか。ここで100年前の今日に歴史を遡ってみよう。

まず、時代背景だ。1922年に『ソヴィエト社会主義連邦』が成立する。ソ連はロシア連邦、ウクライナ、ベラルーシなど、各社会主義共和国が『自由意志』で結合して形成された連邦国家であり、制度上は各共和国がソ連から脱退することが認められていた。もちろん実態上は、脱退など認められるわけはなく、『偽りの独立』である。

以後、世界有数の農業国家である穀倉のウクライナでは、幾度となく破滅的な飢饉が起きることになる。 最初の飢饉は、1920〜1921年に起きた。共産党の農業集団化によって穀物生産が減っていたことに加え、現地の事情おかまいなしに、食糧不足に悩むロシア本土へ、『戦時共産主義』と称して食糧を強制的に送った。この飢饉で100万人のウクライナ人が死んだ。

◆『民族楽器を使って処刑』 これを反省したレーニン率いるソ連は、1921年『ネップ』(新経済政策)を通じて、自由主義経済を復活。ウクライナに対しても『土着化政策』を採用して、ウクライナ人、ウクライナ語にあわせた政策を採用した。これから10年にわたって、言葉、文化、宗教などあらゆる場面において、ウクライナ人はウクライナ人であることを許されたのである。

しかし、その束の間の政策は、スターリンの登場によって、地獄へと巻き戻ることになった。 『第1次五カ年計画』(1928〜1932年)で、過去に一度失敗している『農業の集団化』を再度実施。従わない農民を処刑したり、収容所に送ったが、生産現場は大混乱。収穫量は前年比35%減にまで落ちた。そこで起きたのが、『ホロドモール』(1932〜1933年)と呼ばれる大飢饉だ。

農民は、パンがなく、ねずみ、木の皮まで食べたがそれでも足りず、延べ2505人もの人が人肉を食べたという話も残っている。全体でどれだけ餓死者がでたのかは、ソ連が隠しているため、明らかではないが、300万人〜600万人と推計され、この番組では『394万人が餓死したとも言われている』としていた。 

前回の飢饉では、レーニンが反省し、自由主義経済に戻し、ウクライナ人に自由を与えたが、スターリンはまったく逆で、粛清によってさらに統制を強めた。1920年代に活躍したインテリ・文化人たちへの弾圧も苛烈を極めたのである。

有名なのは、ウクライナの民族楽器『コブザ』を弾く大会に参加した音楽家たち数百名が、『民族的』であるとして処刑された。スターリンによって、ウクライナの教育、文化は、一律でロシア化されたのである。冒頭に紹介したプーチン大統領の『ウクライナはロシアの一部』という指摘は、粛清、統制、餓死、秘密警察、拷問によって、血塗られた歴史のことを指しているのだ。

◆『ウクライナ人の怒りとは』 このような歴史があることから、今回のロシアのウクライナ侵攻では、2022年10月にヘルソンの有名な音楽家(ウクライナ人)が、『ロシア側が主催するコンサートへの協力を拒んだ』としてロシア軍によって射殺された事件で、ウクライナ人の脳裏に、スターリン時代の悪夢を蘇えらせたのである。

この番組を制作した佐野広記・NHKディレクターは、取材を振り返ってこう話す。『印象的だったのは、ウクライナ人たちの「悲劇の歴史を知ってほしい」という強い思いでした。ソフィヤさん一家だけでなく、エキストラや通訳などで、たまたま来てくれたウクライナ人であっても、祖先が殺された記憶が蘇り、涙を流し始めることは、一度や二度ではありませんでした。

どの家族にも歴史の傷跡が今も残る事実に、心揺さぶられました。今回の戦争はそうした百年の記憶を、否が応でも呼び覚ましているのです。しかも、そうした歴史は長く覆い隠されてきました。大切な事実を掘り起こし広く伝える。私たちがやるべきテーマだと思って制作にあたりました。ホロドモール、知識人の粛清、言語・文化の弾圧、秘密警察による監視、強制連行、強制収容所、ロシア化教育……。調べるほど、あまりの壮絶さに何度も途方に暮れました。だからこそ、時代を逆戻りさせる訳にはいかない。ウクライナ人は100年の歴史を背負いながら、いまも闘っているのです』。

祖国を他国の文化や言葉に蹂躙される悲しみ、そして飢餓へと追いやられた怒りを、私たち日本人はどれほどまで理解しているのだろうか。(小倉健一筆)

◆ロシア=ソ連、それに加えて中国。まさに国家指導者は、国民を隷属させて、まさに奴隷扱いである。ウクライナ国民はこの『ホロドモール』こそ、今回のウクライナ侵攻に対する抵抗のエネルギーになっているのではなかろうか。ゼレンスキー大統領が必死になって国民総出での抵抗を呼び掛け、それに大反対する行動、言動が起きないのもその証拠であろう。ウクライナ国民は、再度ロシアに飲まれたら、あのひどい奴隷国家が戻ってくるだけだと信じて抵抗している。頑張れ、ウクライナ!だ。


■■<植物学者『牧野富太郎』>植物学者『牧野富太郎』は、『世に雑草という草はない』という言葉でも知られる。NHKドラマ『らんまん』の主人公のモデルだ。

昭和の初め頃、作家の山本周五郎は記者時代に牧野を取材し、このせりふに接している。『雑草』と口走った周五郎を牧野は『どんな草にだって、ちゃんと名前がついている』『きみが雑兵と呼ばれたら、いい気するか』とたしなめられた。『雑木林』という言葉も嫌いだと語ったという。周五郎研究の第1人者、木村久邇典さん(故人)がこの場面を著作『周五郎に生き方を学ぶ』に記している。

『雑草という草はない』は口ぐせではあったようだが、実は牧野自身の著作からは未確認だ。このため実際にそう言ったか、断定を避ける見方もあった。

そこで『牧野記念庭園』(東京練馬区)の学芸員、田中純子さんは根拠となる資料を3年以上探し続けた。昨春、関係者の協力も得て、28年に出版された木村さんのこの著作にたどり着いた。植物学と全く別のジャンルの本だけに、これまで研究家の目が届かずにいたらしい。田中さんは『多様性を重んじた牧野博士らしい、とても貴重な記録です』と語る。

牧野は生涯で1,500種類以上の植物の発見や命名に関わった。有名な『スエコザサ』は亡き妻、寿衛スエをしのんだ。

『雑草』だとひとくくりせず、路傍の草の名を子供の頃から覚えたり、区別したりすれば、自然を観察する目も養われよう。周五郎は作家として、草花の名を覚えるようこころがけていたという。

◆さすがに牧野さんだねえ。『どんな草にだって、ちゃんと名前がついている』は名句ではある。私も山歩きを始めて、トレイルに咲く草花の名を調べるようになり、今、ささやかなる植物学者見習いをしている、つもりだ。その牧野博士が住まれた練馬の住居をベースに『牧野記念庭園』が営まれている。300種類もの草木類が生育しており、それらの中には『スエコザサ』や『サクラ 仙台屋』、『ヘラノキ』など珍しい植物も多くあるという。是非訪ねてみたい、庭園ではある。

著名な人が亡くなって、住んでいた住居を記念館にする例は多い。あの大作家『司馬遼太郎記念館』は、東大阪市布施にあって、遼太郎が書斎として使っていた広い部屋に、4万冊の蔵書から2万冊を展示し、ファンの観覧に提供されている。これもまた見事であった。是非、『牧野記念庭園』を訪ねてみたい。