今日の画像は『奥穂高への道607 奥穂高下山・横尾~上高地』、史上初日本代表監督を8年連続で務める『広島出身の森保一監督』、日本の伝統的な小物『平打ちかんざし』。そして、広島植物園の『熱帯のスイレンⅣ』です。

上高地~横尾の縦走路は、自然の森を抜けて行く。『自然の森』と簡単にいうが、大正、昭和期から自然は人間の手から守られている。『かみこうち』の名称は本来『神垣内』の漢字表記だが、後に現在の『上高地』の漢字表記が一般的となった。『神垣内』とは、穂高神社の祭神・『穂高見命』(ほたかみのみこと)が穂高岳に降臨し、この地(穂高神社奥宮と明神池)で祀られていることに由来する。温泉があり、穂高連峰や槍ヶ岳の登山基地ともなっている。

★『上高地』は、飛騨山脈(北アルプス)の谷間(梓川)にある、大正池から横尾までの前後約10km、幅最大約1kmの堆積平野である。かつて岐阜県側に流れていた梓川が焼岳火山群の白谷山の噴火活動によってせき止められ池が生じ、そこに土砂が堆積して生まれたと考えられている。狭義にはこの平野のうち、観光名所として知られる河童橋の周辺だけを指す場合もある。この高度でこれほどの広さの平坦地は、日本では他に例が少ない。

気候的に山地帯(落葉広葉樹林帯)と亜高山帯針葉樹林の境界線付近の高度に位置しているため、ブナ・ミズナラ・シナノキ・ウラジロモミ・シラビソ・トウヒなど、両者の森林の要素が混在し、更にヤナギ類やカラマツを中心とする河川林や湿原が広がるなど、豊かな植生で知られている。最終氷期(ウルム氷期)には、上高地の上部に位置する槍沢と涸沢には山岳氷河が発達し、もっとも拡大した時期には氷河末端が上高地最深部の横尾にまで達していたと考えられている。最終氷期から1万年以上経過した現在も氷河によって形成されたカール地形が残っている。気候は亜寒帯湿潤気候(一部地域はツンドラ気候)である。

       <手つかずの自然美が残る上高地>
















 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■■■2022年カタールW杯は、森保ジャパンはベスト8戦で、惜しくもPK負けはしたものの、リーグ戦で欧州強豪のドイツ、スペイン戦を勝ち抜き、ベスト16に進む快挙を挙げた。その監督森保一は、2018年7月に五輪監督を兼務のまま、日本代表の監督に就任。そして2022年11月、W杯一次リーグで、ニカラグアに惜敗したもの、欧州の雄ドイツ、スペインを下し、決勝トーナメントベスト16に進出。改めてその手腕が世界中で高く評価された。実は、森保一の監督職への就任は、2012年のサンフレッチェ監督就任からひもとかれる。サンフレ監督在職5年のうち、3回も優勝するという快挙を挙げた。その延長線上に日本代表監督就任があった。

■■東京都内の飲食店。2人の指導者が、ひざを突き合わせていた。日本がサッカーのW杯カタール大会出場を決めた後のことだ。『話を聞かせて下さい』。切り出したのは、日本代表の森保一監督(54)だ。相手は岡田武史(66)。日本がPK戦の末に16強で敗れた2010年W杯南アフリカ大会の監督だった。

その後の代表監督から、経験を教えてほしいと頼まれたのは『初めてだった』と岡田は明かす。指揮した大会での戦い方から現代表の選手起用まで、サッカー談議は『かなり突っ込んだ内容だった』。

W杯までの4年間を日本人監督に託す――。日本サッカー協会にとっても、大きな挑戦だった。過去、4年間のサイクルを最初から指揮した日本人指導者はいなかった。岡田が指揮し、日本が初出場した1998年のフランス大会は3連敗。選手は国内組、スタッフもほぼ日本人だった。『世界を知らなければ、世界で勝てない』。以降、代表監督は外国人が規定路線になった。

一方で、本場欧州でプレーする選手は増えていった。世界基準を知る選手が主力になると、『外国人絶対』の考えに変化も生まれた。監督に求められるのは、コミュニケーション能力という意見も出てきた。代表は、いわば選抜の寄せ集めチーム。1年間一緒に過ごして連携を高められるクラブと違い、活動時間は短い。欧州から10時間超の長距離移動が必要な選手が多い日本は、より時間が削られる状況にある。

当時の議論を日本協会理事は言う。『日本選手の性格や特徴を知る指導者でなければ、チームの和は作れない。そこが外国人監督では難しい』。実際、事件も起きた。前回W杯ロシア大会2カ月前のハリルホジッチ監督の電撃解任だ。選手との溝が一番の理由とされた。

こうした流れを受け、白羽の矢が立ったのが東京五輪世代を指導していた森保監督だった。コーチとして同行したW杯ロシア大会後、代表監督に昇格した。監督は練習前後によく選手と話をした。年数回は欧州を回って選手の意見を聞き、自分の考えを伝えた。コロナ禍の難しい期間を乗り越えられたのも、対話路線のたまものだった。

12月1日のW杯1次リーグ第3戦のスペイン戦。森保監督は『選手達とも話し合って選択肢を示してくれた』といい、最終的にスタッフ側と選手側と擦り合わせて対策を確認。大一番で強豪を破り、初の2大会連続16強進出に繋げた。

『私が日本代表で結果を出すことが、次の日本人監督に繋がっていく。大きな責任を背負っている』。初の8強入りは果たせなかったが、代表の歴史や経験を生かした森保監督が率いたチームは世界を驚かせた。日本協会副会長でもある岡田は、言った。『それまで意識したことはなかったが、代表は日本人監督でやるべきだなと初めて思った』。

日本協会の田島幸三会長は、森保監督について『次の監督の候補の一人』と明かした。そしてそれを実行したのだ。(朝日)


■■<FC神楽しまねの不参加を決定『支払いが一切実行されず、スタートライン立ててない』> サッカーの日本フットボールリーグ(JFL)は23日に臨時理事会を開き、経営難に陥っているFC神楽しまねの不参加を決めた。

このクラブは約半年間にわたり選手、スタッフ、社員への給与未払いが続く上、今季JFL参加への会費も支払っておらず、今後も資金繰りが見込めないとの結論に至った。

JFLの加藤桂三専務理事は『支払いが一切実行されておらず、スタートラインに立てていない。参加する資格を得られなかった』などと説明した。このまま退会することになる。クラブの存続などは未定。

JFLでは2011年シーズン終了後、アルテ高崎が経営難から活動を中止し、JFLを退会している。それ以来、2例目となる。 同クラブは11年に設立され、18年に中国リーグ王者として臨んだ全国地域サッカーチャンピオンズリーグに優勝。翌19年からJFLへ参加し、15位→10位→5位→12位。昨夏に給与の未払いが明るみとなり、選手らの退団が相次いでいた。

これにより今季JFLは、FC神楽しまねを除く15チームで実施される。3月11日か12日に開幕し、最終節は11月26日となっている。

◆おっとっとっと、『鈴鹿ポイントゲッターズ』はどうなるのだろうか。34人の選手のうち28人が退団したとか聞いたけんどねえ。サッカー界のならず者、『三浦泰年』が率いるが、とても正常な試合ができる算段ではあるまいになあ。困ったもんだ。

今季私は、DAZNの視聴を止める。画像品質、配信品質が劣悪なくせに、やらずぶったくりの値上げに怒ったのだ。その代わり、高原が主宰する『JFL 沖縄SV』を応援する。沖縄にコーヒー産業の起業と、沖縄SVの両輪を懸ける高原直泰を応援したい。

1980年頃、私は福岡で仕事をしていた。沖縄もテレトリーで何回か訪問した。当時の人口は95万人程度で、長崎県の少し下をいっていた。今、沖縄県の人口は146万人。なんと65%アップである。全国でも稀にみる人口増加県だ。が、経済基盤は貧弱で、人々は貧困にあえいでいる。高原の試みはその沖縄県の経済脆弱性を克服する一助として設計されている。高原はこのビジネスに生涯をかけている。こんな高原を応援しないという手はない。頑張ってもらいたい、沖縄SVではある。


■■<アルゼンチンとブラジル、共通通貨創設を協議>ロンドン(CNN) 南米の二大経済大国であるブラジルとアルゼンチンが共通通貨の創設に向けた協議を開始したことが分かった。ただ、専門家からは懐疑的な声も出ている。

ブラジルのルラ大統領とアルゼンチンのフェルナンデス大統領は22日付のアルゼンチン紙への寄稿で、両国のさらなる統合を促進したい考えを示した。

『金融と商流に使用できる共通通貨の議論を進めることに決めた。運用コストや外部脆弱(ぜいじゃく)性の低減につながる』としている。

これに先立ちルラ氏は就任後初めてアルゼンチンを訪問し、首都ブエノスアイレスでの記者会見で、共通通貨の創設は米ドル依存の軽減につながると訴えていた。昨年のドル高は世界各国に痛みをもたらした。

ただ、ロイター通信によると、ブラジルのハダド財務相は記者団に対し、共通通貨創設案の影響を過大視しない考えを表明。アルゼンチンの米ドル不足が両国間の貿易の足かせになっており、政府首脳は解決策となりうる案を模索しているものの、ブラジルの通貨レアルが廃止されるわけではないと強調した。

ブラジルとアルゼンチンは共に、パラグアイやウルグアイを含む南米南部共同市場(メルコスール)に所属する。1991年のメルコスール創設以来、共通通貨をつくる案は定期的に浮上してきた。

ブラウン・ブラザーズ・ハリマンのマーケット戦略担当グローバル責任者、ウィン・シン氏は共通通貨創設の議論が再び持ち上がっている理由について、左派のルラ氏はボルソナーロ前大統領に比べフェルナンデス氏と政治的な立ち位置が近いためだと指摘する。

また新興市場はドル高による打撃が大きく、世界金融システム内でドルが支配的な現状に対して不満の声が出ているという事情もある。ドルは昨年、主要通貨バスケットに対して8%近く上昇。食料やエネルギーの輸入価格が高騰したほか、ドル建て債務の返済コストも上昇した。

ただ、投資家からは、共通通貨創設の試みが軌道に乗るか疑問視する声が上がる。

シン氏は、ここ20年間のブラジルの経済的な立場はアルゼンチンよりもはるかに強固だと指摘。「ブラジルの中央銀行や組織の方が信頼性がはるかに高い」と述べた。

テリマーの株式調査部門を率いるハスナイン・マリク氏も調査メモで、両国は経済状況が異なるため共同歩調を取るのは極めて難しいと指摘。「ブラジルとアルゼンチンは通貨同盟の立ち上げに必要な経済政策やパフォーマンスの一致からは程遠い状況だ」と述べた。

◆英紙フィナンシャル・タイムズによると、ブラジル側は共通通貨の名称としてスペイン語で「南」を意味する「スル」を提案している。他の南米諸国の参加も促す考えで、24日にアルゼンチンで開かれるラテンアメリカ・カリブ諸国共同体(CELAC)首脳会議で議論されるという。

 域内の共通通貨導入は数十年にわたって議論されてきたが、進展がなかった。アルゼンチンのセルヒオ・マサ経済相は同紙の取材に「歩むべき長い道のりの第一歩だ」と語った。

 

◆弱いもの同士が集っても、いいものにはならないのだろうになあ。自助努力が足りない、アルゼンチンにブラジルではあるなあ。

■■<朝晴れエッセー『妹の命を救った、リンゴ汁』>『ただいまー』。町の小学校から帰って来た5年生の兄と3年生の私。

『ん!』。不思議に思った。いつも出迎えてくれる4歳の妹の声が聞こえないからだ。『どうしたん?』と母に聞くと、『置き薬を飲ませも熱が下がらなくて何も食べてくれない』と、うつろな目をした妹を抱いて言う。続けて遠慮気味に『2人でd町へ行ってりんごを買ってきておくれ』と、兄に銭を渡した。

父は仕事に出かけて留守だった。2歳下の妹はこたつで眠っている。『道中はぐれないように』と、母は2人の腰を長い布紐でつないでから、ふかしたさつま芋をおやつにくれた。ガードレールもない山間の谷間道。吹雪で消えた雪道を芋を食べながら這うようにして進んだ。

5キロほど下ると八百屋がある。『りんごを2個・・・』。兄が頼むと店番をしていた老女。『早く温まれや・・・』と雪だるまのような兄妹に火鉢を勧めてくれた。

でも兄は事情を説明して丁寧に断り、りんごを腰に縛って吹雪く夜道を急いで帰って来たら母は戸口で待っていた。そしてすぐにりんごをすりおろし、スプーンでおちょぼ口に当てた。

『おや!』。唇が動いた。『がんばれ!』。皆で応援したらにっこり笑った。『この子はあんた達のお陰で助かったよ』。母は肩で息を吐き、涙声になった。

昔の話なのに、今でも店頭に並んでいる真冬の赤いりんごを見ると、古里の山形県で達者に暮らしている妹を思い出さす。『会いたいなあ』。(愛知 女性80)

◆幼い時代の、強く繋がれた兄妹達のそれこそ命を懸けた助け合う姿が目に浮かびます。


■■<見えざる美学『かんざしの粋』>東京都墨田区の下町で『簪かんざし』の職人を代々務めてきた。簪とは金属細工のことで、私で4代目になる。江戸時代には数多くいた職人も、洋装化に伴って今ではほとんどいなくなってしまった。主に歌舞伎や日本舞踊で使う伝統芸能用を手掛けている。

歌舞伎では丸形の平たい板に家紋を彫り込んだ『平打ち』を使うことが多い。家紋は直径4cmほどで観客からは見えないかも知れないが、細部まで神経を行き届かせることが美しい舞台姿や役者の個性に繋がるのだろう。

日本舞踊には華やかな装飾がついた頭頂部に押す『前押し』や、短冊状の板がいくつも垂れ下がる『ビラビラ』などをこしらえる。桜や藤などのモチーフを立体的にデザインしたものが多いため、平打ちに比べてより高度な技術が求められる。

思い出深いのは『菊の栄』という舞踏のために作った前挿しだ。大小の菊を多数あしらったデザインで、床山さんから古いかんざしを預かり復刻した。花びら1枚1枚を叩いて丸めるのだが、少しでもバランスが狂うと流麗さが損なわれてしまうのが難しかった。

材料には真鍮や銀、銅などの板を用いる。下絵を描き、糸のこで切り、ヤスリをかけ、たがねを叩いて模様を入れ、必要に応じて立体感を出す。その後部品を溶接し、ひょい表面を磨き、金銀のメッキをして、組み立てて仕上げる。

デザインは過去に使っていたものを復刻するケースが多い。床山さんが持ち込んだ現物や写真を見て、展開図を考える。昔のものが絶対に良いとは限らず、手直しする場合もある。最近では国立文楽劇場の依頼で『伽羅先代萩』の乳母・政岡が挿す竹と雀をあしらった平打ちを復刻したが、バランスが悪かったため、竹の太さなどを変えた。きれいになった、と喜んでもらえほっとした。

1917年に曽祖父が始めた家業だが、私は当初継ぐ気はなく、専門学校を出た後に広告代理店で働いていた。転機が訪れたのは26歳で、祖父が亡くなった時。『おやじがリタイアしたら家業が途切れる』『デザイナーは星の数ほどいるが、簪職人はほとんどいない』と責任感が芽生え、家を継ぐ決意をした。

父は百貨店などで売る一般向けを手掛けていたが、需要が右肩下がりだったため、何かいい手はないかと考えてひらめいたのが、伝統芸能のあつらえ品を作ることだった。髪飾りメーカー経由で床山さんを紹介してもらうと、高齢化が進んで職人絶滅の危機に瀕しているという。是非やってほしい、という言葉に背中を押された。

『形が悪い』と最初は叱れっぱなしだったが、それでも若造の私に仕事をくれた。良いものを見ると勉強になると、骨董市に連れていってくれる床山さんもいた。若い職人を育ててやろうという彼らの温かい気持ちに、今でも感謝している。

手の感覚で覚え、良いものを見てセンスを磨くしかなく、10年目くらいでようやくきれいだと思えるものが作れた。今年で30年になるが、終わりがない。舞台を彩る唯一無二の仕事に誇りを持っている。(簪職人・三浦孝之筆)

◆テレビや映画の中では、御姫様や奥方が簪をつけて優雅にふるまう。だけど、文中にあるように、世の中の洋装化で簪などの需要は相当落ちているだろうなあ。その中でも伝統を守ろうとする心意気、誇りがとても強く感じられる。お見事だ。