今日の画像は『奥穂高への道437ザイテングラード・岩支尾根を登る』、ノーベル平和賞のメダルをオークションに出して『140億円の難民資金を得た、ロシア独立系メディア「ノーバヤ・ガゼータ」のドミトリー・ムラトフ編集長。そして、広島縮景園の名花・満開の『シャクナゲ』と『ハナズオウ』です。いずれもピンク・赤の色が鮮やかなる名花ではあります。












 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■■■家庭経済が困難だったため、中卒で就職し、結婚した夫とともに運送会社を起業。引っ越しニーズに対応した運送屋として成長し、今や日本全国引っ越しの『アートコーポレーション』が活躍する。中卒という肩書で、関西経済同友会代表幹事、関西経済連副会長などを歴任。政府の諮問委員会の委員にも就く。学歴が世の中に通用するのは、卒業後就職をする時期だけで、世に出れば、本人が持った努力と実力が社会で評価されるという、まことに疑うことが出来ない来歴の『寺田千代乃さん』ではある。

■■1984年11月の売り上げ100億円達成を受けて従業員のハワイ旅行を企画した。目標を掲げたのは81年、従業員が200人くらいの頃だった。達成したら皆でハワイに行こうと話していた。

急成長と共に従業員も増えていた。参加者は450人以上になり、翌85年1月に挙行した。初めての海外旅行という社員も多く、ハワイ島着後は固まって移動していた。

日本の対米輸出が急増し、貿易黒字が増大していた時代である。摩擦回避のため、自動車メーカーが米国に工場を建設して現地生産に乗り出す動きが広がっていた。引っ越しは国内産業と思っていたので、当時、海外進出など考えてはいなかった。しかし、日本企業の米国進出の流れに巻き込まれることになった。

広島のマツダがミシガン州フラットロックでの工場建設を決め、赴任する社員の引越を頼まれたのだ。200人という大人数だった。マツダの小型トラックを使っていたこともあり、以前から法人契約で社員の引越を受けていた。しかし、米国へのまとまった引っ越しは初めて。その後も継続してお世話が出来る体制を考える必要があった。

少し英会話が出来る社員を米国に派遣し、拠点となる事務所の開設を進めた。目を付けたのはニュージャージー州のフォートリー。NYに近く、日系企業の社員ら日本人が多く住んでいた。開設は簡単に出来ると思っていたが、当時はオフィス需要が増え、日本の無名の企業にはなかなか貸してくれない。お願いして、最初は現在の三井倉庫ロジスティックス社の現地事務所に間借りした。

私も何度か米国に出向いた。フォートリーでビルのオーナーにお会いした際、思いがけないことが起きた。以前受けた海外の雑誌インタビュー記事をその方が目にしていたのだ。記事は男性社会と言われる日本で働いている女性経営者の考えを聞く内容だったが、そこそこの有名人と思われたようで、無事、オフィスを借りることが出来た。

当時の日本の自動車メーカーの米国現地生産では、日本の工場のラインで働く社員が多く赴任した。海外赴任が当たり前の商社マンらと違い、本人もその家族も海外勤務など想定していなかったご家庭が多く、英語や米国についての勉強を急いでしていた。

住む家が決まり、最初に大勢の家族が引っ越す時には私も同行した。フラットロックに近いミシガン州の中心都市デトロイト一帯は大雪に見舞われていた。『ここはアメリカ?』。NYなどと全く違う雰囲気に心細そうな声を出す方もいた。

海外展開では他にも思いがけないことが起きた。アートムービングセンターという名称で事業をしていたら、通関で美術品の輸送と誤解され、木枠梱包を開けて点検されるのだ。当時、海外への荷物には木枠の梱包が必要だった。

邦人に引越のアートと認識していただけるアート以外の名称を考えて出した結論が通称社名を『the0123』にすることだった。現在は米国以外に中国にも法人を設立して引っ越し事業をしている。

米国に何度も行った経験が後の事業にも繋がった。築100年を超えるような住宅を改装して売買している。リモデリングと言っていた。いつか日本でもこうした動きが起きるのではと思ったのだ。


■■<ウクライナ残酷な物語Ⅱ 『一時は大国となったキエフ・ルーシ公国』>ウクライナとは、一体どんな歴史を持った国なのだろうか。ウクライナで大使を務めた黒川裕次さんが語る。

◆初めはひとつの国だった  ウクライナの起源は、9世紀に誕生した『キエフ・ルーシ公国』だ。この地には紀元前からスキタイ人をはじめとする様々な民族が現れては消えていったが、後にウクライナ人やロシア人となる東スラブ人が定着し、キエフ(キーウ)を首都とする国を形成したのだ。

後世にも大きな影響を与えたのが、ヴォロディーミル(ロシア語名ウラジミール)大公だ。キリスト教を国教としたことから『聖公』と呼ばれている。

ウクライナのヴォロディーミル・ゼレンスキー大統領と、ロシアのウラジミール・プーチン大統領が同名なのは、この聖公の名前がウクライナやロシアで今も人気があるからだ。女性の場合は、聖公の祖母で、後にウクライナとロシアで最初の聖人となった聖オリハ(ロシア語名オリガ)の名前が定番だ。

今日のキエフは栗やマロニエ(セイヨウトチノキ)の街路樹が彩る美しい街だが、何と言っても印象的なのは、中世の寺院だ。特に1037年に建てられたソフィア聖堂は、第二次世界大戦でキエフ中心部の85%が破壊された中で、よく無事に残ってくれたと思わずにはいられない。

聖公がキリスト教を国教とする際、ローマ・カトリックでなくギリシャ正教を選んだことは、後世のロシアが西欧諸国やポーランドとの政治的、文化的断絶を生じることに繋がっていく。

一時は中世ヨーロッパの大国となったキエフ・ルーシ公国だが、1240年にモンゴルの進攻を受けキエフが陥落、滅亡した。その後、現在のウクライナの地にできたハーリチ・ヴォルイニ公国も、14世紀半ばにリトアニアとポーランドに併合されてしまう。そこから17世紀半ばまでの300年間、この地域は他国の支配下にあった。

一方で同時期、キエフ・ルーシ公国ではいわば分家の家筋だったモスクワが、大公国として台頭してくる。そして、もともと単一のルーシ民族だったものが、ウクライナ、ロシア、ベラルーシの3民族に分化、言語もウクライナ語、ロシア語、ベラルーシ語へと分かれていった。

こうした歴史を巡り、ウクライナとロシアの見解の相違が出るのが、それぞれの国名についてだ。

※公国=主に中世ヨーロッパで,公爵の称号をもつ君主が治めた小国。現在では,リヒテンシュタイン公国・モナコ公国などがある。(元ウクライナ大使・黒川裕次)


■■<ロシア紙編集長のノーベル賞メダル、『140億円で落札、難民支援に』>ロシアの独立系メディア『ノーバヤ・ガゼータ』のドミトリー・ムラトフ編集長が2021年に受賞したノーベル平和賞のメダルが20日、米ニューヨークで競売にかけられ、1億350万ドル(約140億円)で落札された。競売を実施したヘリテージ・オークションズは、落札者を明らかにしていない。収益はユニセフ(国連児童基金)を通じ、ウクライナ難民の子どもたちの支援にあてられる。

ムラトフ編集長はプーチン政権に批判的な姿勢で知られ、報道の自由を守ってきた活動が評価され、21年に平和賞を受賞した。ロシアによるウクライナ侵攻が始まった後の3月、難民支援のためにメダルを競売すると明らかにしていた。6月20日は世界難民の日であることから、競売がこの日行われた。
 
AP通信によると、過去にノーベル賞が競売にかけられた例では、DNAの二重らせん構造の発見者の一人、ジェームズ・ワトソンのメダルが14年に476万ドルで落札されたのが史上最高額。今回は、これをはるかに大きく上回った。

◆落札者は匿名なれど、ひょっとすると、ロシアの新興財閥、『オリガルヒ』の一人ではあるまいか。世界にロシア人を代表して贖罪しているのかも知れないねえ。しっかし、ノーベル賞メダルを140億円で落札した人はまさにすごいと言える。


■■<日本ピラミッド伝説『葦嶽山アシタケヤマと酒井勝軍』>広島県庄原市にある『葦嶽山』――。『日本ピラミッド』の異名を持つこの山の魅力を語る上で欠かせない1人の人物がいる。日本の『超古代』へ気宇壮大なロマンを馳せ、痛快無比な人生を送ったその人の名は『酒井勝軍カツトキ』。

1974年(明7)、山形県に生まれた酒井の波乱万丈の人生は、20歳半ばでの米国シカゴ音楽大学への留学に始まる。帰国後は、唱歌学校を設立し、キリスト教伝道師などをしている。語学の才能を買われ、日露戦争に通訳として従軍する頃から、ユダヤ民族の研究者としても知られていく。

そして1927年(昭2)、陸軍の派遣でパレスチナやエジプトを訪問。ピラミッドへの研究を始める。帰国後、『ピラミッドは日本が発祥』とする仮設を立て、その検証のため日本各地を調査していくのである。酒井の説では、日本のピラミッドは、自然の地形を利用しながら半人工的に石や土を積み上げて造られたものとしている。

そして34年(昭9)に、この『葦嶽山』を最初の日本ピラミッドとして紹介したのである。その後も、青森県や岐阜県などの山々をピラミッドとして紹介。それら各地の『ピラミッド伝説』は当時、一大ブームとなり、最初の伝説地・葦嶽山の知名度は全国的になったのである。

どの方角から見てもきれいな三角形の山容は、地元では神武天皇陵とも言い伝えられていた。その神秘的な美しさと事項的な形状の巨石群は、昔から謎の古代遺跡とされていた。

◆比婆山の神石も有名だが、この葦嶽山』のピラミッド伝説は知らなかったなあ。是非一度登ってみたいものだ。



■■<官民で川沿いの街づくり、広島市『カフェ開業続々と』>官民が協力して川を街づくりに生かす『かわわちづくり』は中国・四国地域でも広がっている。国の制度に基づく自治体の整備計画登録数が最も多いのは、『四国三郎』の異名を持つ吉野川が流れる徳島県の6カ所で、広島県がこれに続く。川沿いに雑貨店やカフェが開業するなど、地域活性化の拠点として改めて川が注目されている。

徳島市の中心部を流れる吉野川水系の新町川沿いは、8月の阿波踊りで屋外演舞のメイン会場になる。公園や遊歩道が整備され、毎月最後の日曜には産直市の『とくしまマルシェ』も開かれる。かつて悪臭の漂う川だった新町川を再生させたのは、1990年から活動するNPO『新川を守る会』だ。

このNPOと徳島市が取り組む『内町・新町地区かわまちづくり』は国交省が選ぶ『かわまち大賞』で2019年度に審査員特別賞を受けた。会の創設者の中村英雄さんが1人で始めた清掃活動は共感を呼び、事業の幅は道路沿いの花植えや川の周遊クルーズなどに広がった。

その新町川で近年、注目を浴びる事業がある。古い倉庫群の再生だ。NPOの『アクア・チッタ』などが県市と連携し、築50年以上の廃倉庫が立ち並ぶエリアに雑貨店やカフェ、事務所などを誘致している。5月末時点で倉庫全体の3分の2に当たる13棟に、30近い事業者が入居する。

チッタの岡部斗夢理事長は『倉庫街の風情を保ちながら川と共存し、新しい文化やビジネスの発信拠点に育てたい』と話す。行政も用途制限の緩和や倉庫改修の補助を通じ、新たな川辺のまちづくりを支援している。

◆広島県は太田川水系をはじめ河川資源が豊富だ。特に広島市は中心部に6本の川が流れ、水の都として街づくりを進めている。国と広島県、広島市の3者は03年に『水の都ひろしま』構想を策定し、護岸の整備や川岸の緑地の利活用を勧めている。

原爆ドーム前を通り広島湾に注ぐ元安川は、平和記念公園の木々の緑と合わさって市民に親しまれている。平和祈念式典が開催される8月6日には灯篭流しも実施され、被爆者や遺族らが平和への祈りを捧げる。08年にはテラス席のあるオープンカフェが開業し、19年度には8万3千人が訪れた。

市街地東部を流れる京橋川では、05年から民間事業者の出店を募り、複数のオープンカフェが設置されている。19年度は一帯で13万3千人が利用。18年度には国交省が選定する『かわまち大賞』に選ばれるなど、広島の新たな観光スポットとしてにぎわう。

◆鵜飼などで知られ、『伊予の小京都』とも呼ばれる愛媛県大洲市。中央部を流れる『肱川ヒジカワ』は県内最大の河川で、かつては川沿いに40余りの河港があり、地域の物流と経済を支えた。

18年の西日本豪雨で肱川が氾濫し、大きな被害を受けた大洲市は、復興の一環として『肱川かわまちづくり』に取り組む。20年度に始まった第1期計画では、大洲城や国指定の重要文化財『臥竜山荘ガリュウザンソウ』などが集まる市中心部で、河港の復活や水辺広場などを進める予定だ。

◆山口県では防府市が国や地元住民らと連携して市内を流れる佐波川で『新橋地区かわまちづくり』に取り組んでいる。15年度からキャンプ場・多目的広場や浸水護岸の整備などを実施。キャンプ場については、週末に満席となってしまうほどの人気だ。

19年度にキャンプ場と多目的広場を兼ねた『ゆうゆう広場』として完成。18区画を用意している。5月4~5日に開催された『佐波川こいわたし』は幅200mの川に120匹のこいのぼりがはためく中、キッチンカーでのグルメなどが堪能でき、5日には2,000人が訪れた。

◆広島市内の川は、太田川を水源とする6本の川からなっている。が、市内の洪水防止のために造成された、市の一番西にある『太田川放水路』が出来るまでは、西に己斐川、次に福島川があり、合計で7本の川があった。小学校の校歌に『七つの川の 真清水は・・・』とう渡れていたのを思い出す。なつかしき、7本の川は、今6本となり、完全に治水されて洪水などは起こらず、河辺の魅力の取り込みを担っている。『太田川放水路』は、1967年に完成したが、工事は昭和初期から始められ、途中戦争で中断などを経て完成した。今では市内で洪水が起きる可能性はほとんどなくなった安全な街、広島市となっている。


■■<サンフレが大量5ゴールで横浜FCに快勝! J1の貫禄を示して天皇杯16強入り>[6.22 天皇杯3回戦 サンフレ 5-0 横浜FC ニッパツ] 

天皇杯3回戦が22日に行われ、サンフレッチェ広島(J1)は敵地で横浜FC(J2)に5-0で大勝した。2019年度大会以来のベスト16入り。4回戦は7月13日に開催され、前回王者浦和を倒したザスパクサツ群馬(J2)と対戦する。 

サンフレは前半12分、左からの折り返しをMF森島司が蹴り込み、先制に成功。同41分にPKを失敗するシーンもあったが、J1リーグ戦で失点数が2番目に少ない守備力を生かし、1-0で前半を折り返した。  

後半13分には、カウンターの流れからMF東俊希が追加点をマークする。さらに同30分、味方のスルーパスで抜け出した途中出場FWドウグラス・ヴィエイラが流し込み、3-0とした。  

勢いに乗った広島の猛攻は止まらない。後半45分に途中投入のMF松本泰志がミドルシュートを決めると、同アディショナルタイム3分にも松本がクロスを押し込み、連続ゴールを奪取。広島が5-0の大勝で次のラウンドに駒を進めた。

◆サンフレの天皇杯、最近とんと勝ちのニュースを聞かなかった。それにしても5-0とは、まるで野球のスコアみたいだなあ。かつては、決勝に何度か出場したが、そのたびに蹴落とされ、天皇杯は無冠のサンフレ。リーグ戦ではトップとの差が開きすぎている。せめて天皇杯で決勝戦を戦ってほしいなあ。頑張れ、サンフレ!


■■<進化するピアノ、デジタルとアナログの連弾を楽しむ>1台のピアノを2人で同時に演奏するピアノ連弾。聴き手が広い音域の楽曲を楽しめるのが特徴だ。それを自動演奏のピアノで行ったら――。そんなユニークなイベント『ピアノの進化とストリートピアノの魅力~生演奏で届けたい~』がヤマハミュージックジャパンとヤマハミュージックリテイリングの主催、日経ウーマノミクス・プロジェクトの協力・共催で開かれた。

◆人気ユーチューバーの演奏に引き込まれる  東京で桜の開花が宣言された3月20日の午後、東京・銀座のヤマハ銀座店『ヤマハ銀座コンサートサロン』に登場したのは、作曲家でピアニスト、そして登録視聴者数が230万人を超える人気ユーチューバーでもある『よみぃ』さんだ。

木材をふんだんに使ったやわらかい雰囲気の会場。抽選で選ばれた約30人の聴衆を前に、ヤマハのハイブリッドピアノ「ディスクラビア(Disklavier)」に向かったよみぃさんは、『最終鬼畜妹フランドール・S』から始まり、『情熱大陸』『ナイト・オブ・ナイツ』『残響散歌』の演奏を披露。『Cry Baby』(Official髭男dism)や『六兆年と一夜物語』『地球最後の告白を』『千本桜』『群青』(YOASOBI)が、リクエストメドレーとして演奏された。

今回のイベントはインターネットを通じてリアルタイムで配信され、約1000人が演奏を楽しんだ。さらに特筆すべきなのは、東京でよみぃさんが演奏しているピアノがヤマハミュージック 名古屋店(名古屋市)にあるピアノとリアルタイムで同期していることだ。名古屋の会場では、無人のピアノが弾かれており、約20人の聴衆が聞き入った。大容量のデータを遠隔地とスムーズにやり取りできるようになった時代ならではの演出で、ストリートピアノの可能性をさらに広げたといえそうだ。
◆自動演奏の連弾の新たな可能性  続いてのナンバーは「夜に駆ける」(YOASOBI)。スピード感あふれる演奏に聴衆は引き込まれる。さらに「チャルダッシュ」「初音ミクの消失」となじみのある曲が流れていく。

ピアノをよく見ると、鍵盤が自動的に上下している。よみぃさん自身が事前に登録しておいた伴奏データに基づいてピアノが動いているのだ。まるで透明人間がいるかのよう。『透明人間』になったよみぃさんと、目の前に実在するよみぃさんがテンポを合わせながら鍵盤を弾いていく。『4本の腕、20本の指を操ったような感覚』とよみぃさんは表現する。

自動演奏によって鍵盤がどれぐらいの深さまで沈むのか、どれぐらいの速度で戻ってくるのかは、ピアノによって微妙に異なる。よみぃさんは『そうしたピアノによる個性を考えながら弾いている』と語る。デジタル技術でありながら、アナログ的な要素も含まれているのが自動演奏ピアノによる連弾なのだろう。

◆暗い時代だからこそ音楽を楽しむ  人との連弾と自動演奏との連弾は何が異なるのだろうか。「機械との連弾はテンポがくずれることはない。常に一定。人はそれに合わせていけばよい」とよみぃさんは説明する。今回はよみぃさんが事前に演奏したデータをもとにピアノが自動演奏した。別の人の演奏データを使えば、また別の趣が出るだろう。

連弾はピアノの練習でもよく使われるという。先生が難しいパートを弾き、その横で生徒が易しいパートを演奏する。またはその逆も行い、生徒の技量を上げていくというものだ。自動演奏による連弾が広がれば、こうした練習が気軽にできるようになりそうだ。

なかなか収まらないコロナ禍をはじめ、暗いニュースばかりの世の中で音楽が果たすべき役割は何か。ヤマハは『おかえり、おんがく。』というキャッチフレーズでそれを表現している。音楽は前を向こうとしている人の応援歌になるのだ。

同じ場所に多くの人が集まるのが難しくなった。よみぃさんは「動画を配信するユーチューバーとして、多くの人が家に居ながらにして音楽を楽しめるようにしたい」と話す。距離の壁を崩すインターネットをうまく利用すれば、音楽の力はもっと高まる。そんなことを感じさせるイベントだった。

◆ピアノが弾ける人は、私にとってあこがれであった。昔、ピアノを習う子供は、お金持ちの子供に限られ、もちろんピアノのある家庭は裕福な家に限られていた。今は、時代が変わり、一般的な家庭でもピアノを持ち、子供がピアノレッスンに通う姿が日常になっている。とっても羨ましく、また社会全体がいい時代になっているな、と感じるねえ。ロシアにはこんな時代が来るのかなあ。かわいそうではある。