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★広島市の平和公園には、住所氏名はあるものの引き取り手のない遺骨を納めた『原爆供養塔』がある。この供養塔の遺骨の身元調べにフリーライターの堀川は東奔西走する。そのドキュメントが『原爆供養塔・忘れられた遺骨の70年』。本書は今年の『大宅壮一ノンフィクション賞』を受賞。その足跡と緻密なドキュメントは堀川の人類愛を限りなく表した書と言える。

★今日の画像は、広島市安佐南区の権現山~阿武山への縦走風景です。´権現山・毘沙門天への参道、9島南アルプスと市内、て雲症?慧塋?漫↓グど雹嚇仍各擦任陵邁屐↓Πど雹海ら広島南アルプスと市内、同深川方面、┃一昨年の土砂大災害防止のための大型の堰建造風景。

★★原爆供養塔の再建については、建設省の見解との相違で、『墓』という理由に補助金は一円ももらえない。すでにこの地にあった寺・慈仙寺の僧侶吉川ら戦災供養塔が独自に集めた募金は50万円にも達していたが、広島市は二の足を踏み、動きは緩慢であった。そんな中、当時の金で40万円という大金をポンと差し出した男が現れ、流れは徐々に変わって行く。『森澤雄三』、知られざる広島復興のキーマン。

森澤雄三は戦前、広島市の水産係長を経て、戦時中は水産業を取り仕切る統制会社の代表に就任。戦後は初代の漁業組合長に推され、そのまま県議会に送り込まれた。選挙はトップ当選、保守の王道としての地位は盤石だった。それが昭和22年9月、急遽県議会に籍を置きながら、広島市から乞われて市の助役を引き受けることになる。この異例の人事の背景には、広島市の切迫した事情があった。

当時の浜井晋三広島市長は、いわゆる革新系だった。そのため、中央の自由党筋との折衝がうまくいかず、就任早々、総理への陳情すらままならない状態に置かれていた。広島市が全力を挙げて成立を急いでいた『広島平和記念都市建設法』は、中央では検討資料として取り上げられることすらないまま放置されていた。この膠着状態を打破するためには、市長の代理として動ける、しかも予算交渉を熟知した、さらには自由党筋に太いパイプを持つ人間が必要ということで森澤に白羽の矢が立った。

森澤は期待された通り、ブルドーザーのような剛腕をふるう。自ら県議であったこともあって、まずは県から補助金を難なく取ってきて周囲を驚かせた。さらには県選出の代議士で後に文部大臣などを歴任する灘尾弘吉や、通商産業大臣(のち首相)の池田勇人らに働きかけ、吉田茂総理への面会の約束まで取り付ける。さらにはGHQにまで人脈を広げ、支援を受けた。それらの努力が、昭和24年5月10日、法案が衆議院を満場一致で通過し、結実する。森澤の助役就任から2年半あまりのことだった。

森澤は、8月6日の原爆投下により、二人の愛娘を失っている。長女(18)は広島市の舟入中町で保母の見習いをしていた。次女(14)は女学校2年で、学徒動員で連日、広島市役所裏の雑魚場町で建物疎開の作業にかり出されていた。次女は陸軍兵器敞で見つけることが出来たが、変わり果てた姿になっており、次の日うわごとを言いながら息を引き取った。長女は、被災直後にその声を聞いたと言う証言があるだけで、大八車を引き、市内をくまなく探したが行方は分からなくなって、以後もとうとう分からなかった。

『広島平和記念都市建設法』の陳情のため上京し、吉田茂と向き合った森澤は、あの日、広島で一体何が起き、人々がどれほど辛苦を舐めたか、そして自分自身が何を見たかについてこんこんと語った。打ちのめされた今の広島の町は赤子のようなもので、一人の力で立ち上がることは出来ない、どうか力を貸してほしいと切々と申し入れた。最初は森澤に会うことにすら乗り気でなく、『田舎者と小馬鹿にしたような目をしていた』という吉田茂も、徐々に机に向かって身を乗り出し、最後は目を潤ませて話を聞いたという。吉田は、森澤の熱のこもった陳情を受け、池田勇人に『何とかしてやれ』と指示を出した。

復興に向けての法整備に道筋がついた昭和25年5月、森澤は広島市の助役を退職する。その潔さは周囲の議員経ちを驚かせたが、さらにみなが目を剥いたことがある。森澤は、退職金40万円全額を、一円も受け取らないまま退職した。その全額を、在職中の森澤にとっては畑違いの『供養塔』を再建する時のために寄付をしたいと申し出たのである。

たとえどのような思いを抱き、どのような恵まれた境遇にあっても、森澤のように自らの懐に入るはずの40万円もの大金をポンと差し出すことの出来る人は、なかなかいないだろう。同時にその事実からは、明日の生活にも窮する広島の町角で托鉢に経つ吉川ら僧侶に、供養塔再建のためだけに50万円もの募金が寄せられたことの重みもまた、改めて伝わってくるのである。歴史の表舞台には決して現れることのない人々の想いに支えられ、原爆供養塔は平和記念公園の中に留まり、現在の形になった。そして慈仙寺鼻に集められた遺骨に寄り添うようにして生きた吉川元晴もまた、原爆供養塔の再建を見届けたかのように、昭和31年12月、急逝した。56歳だった。

★NHK籾井会長が来年1月任期を満了する。メディア人として『失格』の烙印を押された籾井氏の再任はあるのだろうか。人格、識見ともに劣化したNHK会長は一体ダレが任命したのか。最終的には阿倍首相だろうが、発意した人間はダレだ。元三井物産副社長の肩書きも軽い。なにより、記者会見での発言を見ていると、メディア人としての失格の要素が盛りだくさん。思考力と発言力に問題がある。痩せても枯れても、公共放送の長なのである。もっと自我を殺し、凡人の上をいく透明性と質の高い発言は出来ないものだろうか。まあ、この歳して変わることはあるまい。止めて欲しいねえ、籾井再任は絶対に。たのむぜよ、阿倍君。

★へどが出ますねえ、舛添旦那の記者会見。人の上に立つリーダーとしての資質が欠如しているに拘わらず、都民のために続投と。こうなれば議会で退陣決議をしてもらうしかないです。自公は擁立政党ですが、このままいくと参議院選大敗しますぞ。英断を持って舛添旦那を罷免すべきですな。とても議席2/3なんて取れませんぞ。道徳心の欠ける者が、世のリーダーを努めることは亡国に繋がります。さらに、どうも嘘っぽい正月の知人との会議。この人は横浜の人のようで正月には墓参で、よそへは行かないと。嘘がばれるのが怖くて、氏名を明らかにしないのだろうなあ、舛添旦那は。

6月15日、やっと辞任に。全会派が一致して不信任案の上程に至ったため。辞任はオリンピック後にしてほしいとか、歳費は全額返上するとか見苦しいふるまいを露呈しましたが、都民、国民の厳しい批判は避けられませんでした。

★今年ヒットした映画、岡田准一主演『エヴェレスト 神々の山領』の原作上下巻を読む。熟考20年、さらに4年かけて夢枕獏1997年の著作。すごい物語です。無酸素で登頂を試みる無謀を、これでもか、これでもか、と。獏曰く、『これが書きあがった時には、思わず落涙。感無量であり、考えていたこと、書きたかったことは、全て吐き出してしまいました。本書が、夢枕漠の、現在の等身大です。このような想いをもって書き上げた本は他にありません』と。ちなみに、本書のためエヴェレスト・ベースキャンプには6度足を運んだそうです。漠の生涯の代表作でしょう。そのエヴェレスト、チベット語で『チョモランマ』、ネパール語で『サガルマータ』と呼ぶそうです。

★民進党が参院選用のポスター3種類を発表。その一つに『憲法改正阻止』が。私は戦後70年経ち、社会情勢・通信技術・ITなど大きく変わり、そして何より現憲法はGHQの監視・指導のもと、8日間で速成され旧帝国国会で決定されたもの。国民投票など受けていないのです。それなのに、現憲法改正阻止を叫ぶ民進党は古ぼけた苔のような感じを受けます。自公のやることが全て良しとは言いませんが、民進党ももっと根源的な問題の解決に努力すべきでしょうねえ。千載一遇の天下を取ったときには、バカ殿鳩山由紀夫と菅直人が世を乱し、政権を失う大犯罪を犯しましたが、その後悔い改める考えは出たのかどうか、疑問です。

★参議院選に向け、各党首が都内で第一声を。阿倍総裁は、『アベノミクスは道半ば、まだまだ推し進める必要がある』と絶叫。なにか90年代に聞いたことと同じニュアンス。当時『経済再生』を旗印にあれこれ策を労し、金を突っ込んだたが、すべてどぶの中へ。国の借金はGDPの倍に上る1,000兆円にも。これは一体誰が払うのだえ、自公党首殿。90年代に一番必要だったのは、なりふり構わない『超円高対策』だった。今必要なのは、我慢に我慢をし、小さな政府造りで国を再生すること、もしくは超ハイパーインフレを起こし国の借金を実質目減りさせること。出来るかい、安部晋三君は。

★私は今参院選の選挙には行くものの、白紙投票をしようと思います。自民、民進共にタスキに長し、帯に短しです。特に民進党は、鳩山由紀夫ボンクラ首相のみそぎさえ済んでいませんし、アベノミクスに対抗するオカダミクスなるものが全然見えず、単なる自民批判に終わっているからです。こんな無責任な党には投票できませんし、失政続きの自民にも投票できません。ましてや軽率減税を貧困層を救う道であると詭弁を弄する公明には絶対投票しない。自公殿、文句があるなら、即刻舛添旦那の首を切ってちょ。

★悲惨ですねえ、オーランドのテロ50人殺人事件。銃社会アメリカの真骨頂でしょう。それでも憲法があるからと、銃保持を正当化する銃器メーカーやトンプソン、アメリカ社会がどん詰まりになるまで分かんないのだろうなあ、この種の人達は。犠牲者を悼み合掌。