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広島市は、太田川の三角州で、毛利輝元が広島城の建設に踏み切ったところから城下町として発展します。
当時、現在の平和大通りの北にある『白神神社』の地盤の岩場が海の波に洗われていた、といいますから、神社・平和大通りより南は葦のしげる荒れ地だったと想定されます。

徳川300年の眠りから覚めた『明治維新』。
『廃藩置県』により、藩制度は音をたてて崩れ、広島藩は広島県、福山藩は福山県、神石郡の一部は九州中津藩の領地であったところから『中津県』、幕府の直轄地であった甲奴郡の一部は『倉敷県』へと衣替えし、再出発します。

その中で広島市が抜きんでて発展をしたのには、先達のたゆまぬ努力がありました。

その人々の中でも、広島県知事となり『宇品港』の建設に身命をなげうった『県知事・千田貞暁』、江戸の時代からの豪商で、広島市の発展に全力を傾けた『保田八十吉』、そして没落士族救済の殖産事業などを展開した『海塚新八』は、広島人として忘れてならない人達、『3賢人』です。

<1. 千田貞暁>
明治13年4月、広島県令(知事)として赴任した千田貞暁は、県内を巡視して『県内生産力の不振』を目の当たりにし、その打開のためには県内道路の改修と、港湾の整備が早急の課題であると判断して、宇品の築港を打ち出しました。特に宇品の築港は緊急の事業として取り上げ、翌14年8月には計画が示されました。その概要は次のようなものでした。
(1) 京橋川左岸の皆実新開から宇品島を結ぶ堤を築き、宇品・金輪島の海峡を船舶の停泊場とする。
(2) 停泊場と広島の中心街をつなぐ車道をつける。
(3) 皆実新開と宇品島の間に、新開墾地をつくる。

総工事費はおよそ18万円という大築港工事計画でした。ところがこの計画を知った沿線の住民、なかでも仁保村大河地区(現南区大河町)の漁民たちが、広大な漁場や養殖場が失われ、生計の道を奪われるとして猛烈な反対運動を起こします。
これに対し、千田県令は自ら出向いて漁民の説得にあたったほか、築港計画の賛成者で、当時広島における財界第一人者であった『安田八十吉』にも説得を依頼し、住民の理解を得るための活動を熱心に進めました。

そのかいがあって住民の反対運動もおさまり、明治17年9月には起工式にまでこぎつけます。
築港工事は、途中で行くたびかの困難に遭遇します。
暴風雨や高潮で被害を受けた外、19年から始まった呉鎮守府や江田島兵学校の建設工事の影響で労務者が不足して、労賃や資材費が高騰するなど工事費はかさむばかりとなりました。
そのため県内全域から寄付金を募ったり、銀行からの借入や政府に補助金の申請をした外、千田知事(1886年県令を知事に改名)は自分の財産の一部を処分するなどして、資金を調達したのです。

明治22年3月、国庫補助金3万5千円が認可されましたが、それと引き換えに千田知事は懲戒処分を受けました。それでも彼はひるむことなく工事を継続して、同年11月、5年3ヶ月の歳月と、当初予算を大幅に上回る30万円の費用を使って宇品築港は見事な完成をみせました。

完成当時は、無用の長物とされていましたが、明治27年の日清戦争で重要な役割を果たし、広島市のその後の発展に大きく貢献することになります。
宇品の築港工事は、広島の都市基盤を築くためには重要な事業ではありましたが、一方では失業した士族の生活を救済し、その不満を解消するという目的も含まれていました。
その反面、生活の場を奪われた漁民たちは、海外に活路を求めハワイや米国本土へ移民して行き、広島県が『移民県』といわれるようになるきっかけをつくってもいます。

広島市においてはその後、千田貞暁知事の宇品築港の功績を讃えて、宇品御幸通りに『千田廟公園』をつくり、彼の銅像を建立した外、市内の旧国泰寺村の南部分を『千田町』の町名をつけて、千田知事の名を後世に残すこととしました。
さらには、公園内の一角に『千田廟社』を建立して、遺徳を偲んでいます。

『宇品港』なかりせば、今の広島市の繁栄はなかった、と歴史は暗示しています。
千田知事は、政府の懲戒により宇品港完成前に『新潟県知事』に、以降和歌山県、愛知県、京都府、宮崎県の知事を歴任。後男爵に称され1908年に亡くなるまで広島市に在住しました。

維新後、薩長土肥でなければ人にあらず、とまで言われ、維新4県の横暴さは国民からも強い批判の声が寄せられています。
しかし千田知事はそのような『薩摩閥』を振りかざすことなく、赴任地・広島の行く末を考えた政策を実施。『千田なかりせば、今の広島もなかりし』とまで言わせます。

賢人とは、このように目先の具象にとらわれることなく、後世の結実を予測し、相応の行動を貫徹することにあり、と感じます。
『明治維新広島3賢人』の第一に拙者が千田知事を選んだのは、このような理由によるものです。

今日の画像は、『夢のタイガー・ウッズと握手し、嬉しさいっぱいの石川遼』と、千田知事を奉じた『千田廟公園』です。

★昨日厚生労働省が発表した、30年後の年金給付率50%、平均手取り収入70万円の半分、をそんな収入水準にはならない、と私は否定しました。平均手取り70万円というと年収手取り840万円、税込みだと1,000万円を越える年収が必要で、全所帯の平均がこのような数字になるはずはない、と主張したわけです。

と、今日の読売新聞社説。
,海凌字はかなり楽観的な予測を積み重ねた結果、はじきだされたものである。
⇒?鵑蠅4.1%、高齢者就労が240万人増、現役世代の就労も340万人増、と目論んでいる。
9駝映金の納付率も、現状の60%から80%に上がると算定している。
ず2鵑猟拘鋐通しは、所得代替率50%達成という結論を導くため、前提となる予測を逆算したとみられてもやむを得ない内容である。
ス駝韻年金に抱く不安の根源は、所得代替率が50%を割るか否かではなく、年金制度の構造が頼りないことにある。
Δ茲辰董∪府は年金制度を支える財政的な裏付けを固めのが先決だ。

と、主張しています。
ポイントは私の主張を異なるところがありますが、数字のつじつま合わせ、と言う点では一致しており、いかに政府が出す数字に信頼感がないか、を読売の社説は喝破しています。