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★11月の工作機械の受注が、前年比62%減、と。自動車、電機の受注減・減産の影響がもろに。恐ろしいですねえ、この数字。特に中国からの受注は80%減、設備投資が完全にストップした状態です。

それにしても日本経済新聞、すごいですねえ。
『トヨタ初の営業赤字の公算、年間予想再び下方修正』と報じました。まだ発表段階でないのにその匂いをかぎつけ、トヨタ関係者をくまなく取材し(夜自宅訪問を含め)日経新聞の責任で記事にした、というところが凄いです。誤報だったら相当の訂正記事が当然必要になりますから。なお、NHKニュースも同様の内容を正午のニュースで流しましたが、これは日経の後追いで、NHKのスクープではありません。
トヨタが赤字ですから、自動車メーカー11社全部が赤字に陥るのでしょうかねえ。

★全国的に有名なっている広島の路面電車。広島市に市内電車が走ったのは、大正3年11月23日です。
発起人は、大林組創業者大林芳五郎、広島瓦斯社長・大阪瓦斯社長片岡直輝、北浜銀行頭取下清周など大阪の財界人。大林さんは大阪の人。
理由は、日露戦争後の不況で広島財界で資金の工面ができなかったことと、すでにこの三氏ほかは広島市内のガス事業で成功を収めており、また大林組は日露戦争の諸工事で広島、呉になじみがあったことなどがあげられます。
ちなみにわが国で最初に市内電車が走ったのは、京都市で明治28年2月。

政府からの特許(許可)は、明治43年2月に受けられ、大林組が主体となった広島電気軌道を設立し、線路の敷設工事を始めました。
しかしこの路面電車事業には、他にも電力の鬼と言われた松永安左衛門や、福沢桃介(諭吉の娘婿)など東京資本が請願しており、これらの調整に時間をかけています。

大正3年、広島電気軌道は3路線で運行を開始。
路線は広島駅から紙屋町を経由して御幸橋間、そして紙屋町~櫓下間(現在の相生橋西詰)、さらに八丁堀から白島まで。

前後して大正元年には、櫓下~己斐路線を、大正4年には御幸橋から宇品へ、6年には横川線を手がけ順次事業を拡大していきました。
また大正6年7月、広島電気軌道は出資者が同一であることから、広島瓦斯と合併して広島瓦斯電軌となり、鉄道業にも進出し宮島線を開通させるなど、発展しました。

路線の敷設については、土地の買収で当初は随分と難渋したようですが、当時広島財界の重鎮であった京橋町の安田八十吉や塚本町(現堺町)の海塚新八、早速整爾らの仲介で抵抗派も次第に穏健となり、路線の敷設が進みました。

なお、八丁堀から相生橋間は広島城の外堀を埋め立てた上に敷設され、紙屋町~御幸橋までのほとんどは西塔川を埋立てその上に線路が敷かれました。

電車の開通後は業績も順調に推移しましたが、大正5年、芳五郎が逝去したことで、大阪の資本は順次広島財界人の手に移り、社長も松浦泰次郎や松本勝太郎など、広島財界で活躍する人達が就任しています。

なお、広島瓦斯電軌が瓦斯と電軌に別れるのは、昭和17年4月のことで、太平洋戦争が峻烈となり戦時下の国策として分離させられ、現在の広島ガス、広島電鉄となっています。

広島の市内電車を走らせた恩人として、私も大林芳五郎の名前を初めて知りましたが、市民の間に
ももっと知られてもいいのではないかと思います。(*.*)

今日の画像は、『磐越西線を走る蒸気機関車、ばんえつ物語号』と、『広島電鉄本社車庫4景、市内を走る電車2景』です。
磐越西線(ばんえつさいせん)は、福島県郡山市の郡山駅から会津若松駅を経由して新潟県新潟市秋葉区の新津駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)です。