今から2600年程前にインドにおいて人間の生き方「心と行い」についてお釈迦様が45年間も説かれたのが仏教であることは皆さんもご存知だと思います。

その当時には仏像も経文も存在しませんでした(バラモンについては別)ゴーダマブッタが説かれた人として日常どういう心で活き行為するのが正しいかと教えられたものの筈です。

それが時を経るに従い思うこと行うことは脇へやられて仏像を拝み、祈り、自分の欲望を叶えて貰うように頼みごとをし、その代償として物やお金を上げることが仏教と言う事になってしまいました、真実の釈迦の教えは経文と言うものに置き換えられてそれを声にして唱えることが信心であり金属や木で作った仏像を仏として崇めて拝むようになってしまった。

聖徳太子の仏教は禅定でした、中国の天台智顗も止観禅定を最重要な修行方法でした。

しかし日本に渡来したからの仏教は反省、止観は無くなり経文の読誦や仏像を拝むことが仏教信徒の行うべき信心の姿であるとされてしまった。

時を経て既存仏教は各宗派に別れて信者獲得競争に明け暮れ人間の生き方を教える僧侶は絶無となり他力本願ご利益信仰が正しいものとされ、ご利益を得るにはお布施が多いほど求める利益が得られると言う風潮が一般常識となってしまいました。

各宗派の本山という寺院は豪華なものとなっていきました、それに輪を掛けたように新興宗教が勃発し、その新興宗教は信者獲得に血道を上げて中には人間関係まで破壊するようなことまで起きたのが実情です。

このような時代が長いこと日本中で起きた結果、殆どの人々は宗教と言われると拒否感を抱くようになってしまい、現状の日本は宗教アレルギーのような状態を作ってしまったのではないでしょうか、宗教的な言葉や話を匂わせると途端に嫌な顔をされたり、話を逸らすようになる人々が殆どと言って良いかと思うのは私だけでしょうか、仏教に限らず他の宗教も全てアレルギーを持たれてしまった、それは過去の宗教者達が如何に間違がった行動をして来たかの結果であります。

昔の言葉に「天知る地知る我が知る」というのがあります、どれだけ人に知られないように誤魔化しても天(神仏)は知っているぞ、地(地獄の魔王達)も知っているぞ、何と言っても自分の善我なる心は知っている、誤魔化しても無駄だ、正しい生き方が大切なのだと先人達は言ったのだと思います、しかし人に知られるのが嫌で裏表を使い分けて良い人を演じる人々が圧倒的多数を占めているのではないでしょうか、しかしそのようなことが続きますと自分で自分が許せなくなるような人も出てきます、人間は本来善なのですからその両面の間に軋轢が生じ丁度車のアクセルを吹かしながら同時にブレーキをかけ続けているような状態になると精神にバランスを崩し精神的な病気になってしまう人も出るでしょう、宗教は本来正しい人間の生き方を示した物の筈が宗教指導者達の我意が入り欲望と相まって人々の信頼を無くしてしまったのです。

宗教に勧誘されると嫌だと思う人が多いのは最もなことです、しかし、言われる宗教は本当の意味において宗教とは全く違うものだと言うことを知ったならば素直になれるのではないでしょうか、自分の人生を幸せなものにしたいのであれば拝まなくともお布施を上げなくとも自分自身の心と行為を正して日常を送ることが真に神仏の教えに適ったものであることを知った方が損得で行っても得なのです。

真の正しい宗教はお金等いりません、寺や神社に行って拝まなくとも良いのです。

どうか宗教アレルギーの自縛から自らを解き放ち幸せな人生を生きてほしいと思います。