質問に対して私は以下のように思います。

貴方は勘違いをされているのではありませんか、高橋信次先生から教えられた法が間違いのない唯一無二の真理だと信じることは正しいと思いますが知識を得たからと言って自分が他の人に比較して選ばれた者と思い込むと他の人の気持ちや立場を斟酌することが出来なくなり独善、傲慢になり易いのです。

 

そうなると自分では反省をしていると思い込んでいても自分の自己満足を得る反省になってしまい、本当の意味の反省が出来ていないようになる可能性があります、そうして自分の意に沿わない人を疎外し咎めて責めるような心になり易いのです。

 

また人を見下すような思いを持つことも起こりうるようになるのではないでしょうか。

高橋信次先生の教えの本を何回も読み、音声講演も聞いて言われていることは理解した、知識を得たと自負している人、その知識の理解度の深さや広さはどうでしょうか、世の中には古今東西色々な諺もあり人の道を教えた良い言葉や教訓も存在しています。

 

しかし、それを知ったからと言っても知識は知識の域を出ず、暗闇の中の小さな灯明のようなものと言っても過言ではないでしょう。

 

私達が得た知識は光を知ることでもあり暗闇を知ることにもなるのではないでしょうか、一本の灯明の光は弱く僅かな周辺しか照らすことが出来ません。

 

光の届かない闇もあることを知ることが肝要ではないでしょうか、ですから知識を得た、光を得たという事で他の人々を独断で断罪したり切り捨てたり攻撃したりするのは真の法を未だ知り得ていないと思いませんか、知識に溺れて選民意識を持つことは過去にも多くの人の存在がありました、結果は争いになり心を汚して互いに傷ついて高橋信次先生の教えとは反対の方角に歩んだ人々が多かった。

 

自分の考えと違う、反りが合わないからと排他的に反感をもったり、憎しみ、怒り、恨みに走るようなことになるのは「己に厳しく他に寛容たれ」と叫ばれた高橋信次先生の教えに背を向けている行為になるのではないでしょうか。

 

人はそれぞれの転生において経験し個性とカルマを作って存在しています、それを無視して自分の枠にはめて枠外の人を除外するような独りよがりとも言うべき行為や思いは神の意志とはかけ離れた状態と言わねばなりません。寛容の心は人を生かし自分をも生かす大きな心ではないでしょうか。

 

愛と慈悲の思いはどのような人の心にも存在しているのです。

心の奥底に、それが表面に出てくるかどうかはその人の日々の生活行為の在り方次第ではないでしょうか、要は知識を実践により智慧にまで昇華させることが必要ではないかと私は思います。