今までかなりの人々と巡り会い高橋信次先生の説かれた法を伝えてきました。

素直に信じていただいた方も逆に否定された方もいました。



否定的な思いを持たれた方々は多分にガンジガラメの堅苦しい生き方をしなければならないのだと思われたのではないかと思います。



少し信次先生の本を読んでこうしてはいけない、ああしてはいけないと戒律的な思いを持たれたのではないでしょうか。



一切の欲望を捨てなければならないような生き方は不可能だ。


理屈、理論、理想論、等と考えられたのではないかと思います。

そうして自分には無理だと初めから否定したのではないでしょうか。

又、一方で信じた方々の中にも出来たらいいな、と言う思いで一寸やってみようと軽い気持ちの方もいられたのでしょう。



中にはこれは絶対の真理であり自分は一生懸命実践すると意気込んで反省の実践をされた方々もかなりいられたのではないかと思います。



しかし、最初の感動が続かず反省はしたけど何も変わらない、変われない。



心の進化向上の兆しも何も感じられない、周りの人間関係も良くならない。

仕事の悩みも解決できない、経済的、肉体的な分野においても良くならない。



未だ自分の反省が未熟だからと思い懸命に反省してみたが、反省自体の仕方が間違っているのか分からない、昔の自分のなして来たことが思い出すことが出来ない。



等々が続き段々自分には無理なんだという思いが心の中に浮かぶようになる。



高橋信次先生は正法を実践すれば経済的にも肉体的にも調和がとれてきてその内悟りの霊道が開き過去世が分かるようになり、魂の不死が実体験できると言われている。



自分は何年経過してもそのようになれない、悩むこと苦しいことが無くならない。



そのような生活の連続から段々正法に背を向けるような日常を送りその内全く逆の思いを抱くようになる。



上手くやってる悪人もたくさんいるし見たところ経済的にも肉体的にも恵まれているように生き生き活躍している、正法的にみたら欲望の儘にしたい放題の生き方をしている、あれでもいいのか、自分と比較したら向こうの方が幸せそうだ。



そんな思いに駆られて益々法から遠ざかる。



そのような人を見てきました、正法を実践したら忽ち全てが良い方向に向き幸せになれると思う人々の心には既に結果を求めた心があっての出発なのです、確かに全ての人に結果を期待せずにと言うのは無理があるかもしれません。



病気の人は良くなりたい、経済的に苦しい人はその環境から脱出したいという思いから宗教に意識を向ける人が多いでしょう。



しかし、本当の高橋信次先生の教えを知って行ったならば一足飛びに結果の好転を望むことが間違いであることに気付くでしょう。



目に見えて自分の周りや環境が変わる人も確かに一部にはいるかもしれませんが殆どの人々は激変と言うことは感じることなく年月が流れふと自分の過去と現在の自分を比較し思いだした時に随分と自分が変わったことを知るのです、それが正法の実践の結果なのではないでしょうか。



川の水が途切れることなく流れ朝太陽が東の空から上り雲が流れ自然は変わりなく生きているように平凡な日常の中に小さな幸せを感じれるようになれたならば全てに感謝できるのではないでしょうか。



ふと周りを見回し生かされている幸せに気付くことができれば良いのではないでしょうか。



高橋信次先生の説かれた教えはこの世に生まれ肉体人生をどう生きたら良いのか生まれた意味と生きる意味目的の根源を教えられたものであり、欲望を満たす方法を示したものでは無いと言うことです。



表面だけ取り繕って良い人を演じても自身の心の絶対善なる意識は抵抗を持っているのです。



悪をなす人も自分の心に言い訳をしながら生きているのです。



もしそうでない人ならばこの世における修行の意味も又生きる意味もない人生と言えましょう。



いかなる財も地位名誉もこの世限りです、生きているうちに悪のエネルギーで為した贅沢や財はあの世に帰った時にはとんでもない重さを自身で担ぐことに成ります。


それでもこの世の贅沢を望みますか、今の一瞬の財や地位、名誉が欲しいですか、多くの人は後に取る責任の苦しさを知らないで今を生きているのです。



世界を見ればとんでもない生き方を余儀なくされている人々がいるのです。



一日一日が平凡に過ぎて行くのをつまらないと思う人もいるでしょうが住むところも食べるものも無い人々もいるのです、アナタはどうですか、日本に住んでいて毎日を不平、不満、愚痴で過ごしていませんか、それで満足が得られますか。

生まれて生きて死ぬその意味を今一度考えてみてください。


そうして素直な心で高橋信次先生の教えを読み直してください、答えはそこにあります。



自分は運が悪い不幸だと思うのは自分がそうしているのです。

神や人々がそうしているのではありません、自分がそうしているのです。